第43回 「やらないより、やって失敗した方がいい」フィギュアの裾野を広げる挑戦を続ける 本田武史氏 プロフィギュアスケーター/スポーツコメンテーター
編集部より
たくさんの興奮と感動を与えてくれたミラノ・コルティナ五輪。なかでもフィギュアスケート競技は、団体の銀メダルに始まり、女子・男子シングルの銀・銅メダルダブル受賞、三浦璃来・木原龍一(りくりゅう)ペアの日本史上初金メダルとおおいに盛り上げてくれました。
NHKのスタジオから選手たちの演技を見守っていたのが、2002年のソルトレイクシティー五輪4位の実績を持ち、日本男子フィギュアを牽引した本田武史さんです。フィギュアスケート選手にとって五輪の舞台とは。ご自身の経験を振り返っていただきながら、フィギュアスケートの魅力や今後の展望を語ってくださいました。
本田武史氏
世界選手権で2度銅メダルを獲得し、日本の男子フィギュアを牽引した本田武史氏。いまや世界大会のメダル常連国となった日本フィギュア界への貢献は計り知れない。今年プロ20周年を迎える同氏のスケートへの思いとは。
また、来月開催されるミラノ・コルティナ五輪についても語ってくれた。
[取材・文]=竹内美香 [写真]=山下裕之
忘れられない五輪の感覚
―― 来年2月にはミラノ・コルティナ五輪が開催されます。フィギュアスケート競技も期待されていますね。
本田武史氏(以下、敬称略)
団体戦でも個人戦でもメダルの可能性があります。僕が現役選手だった20年以上前は、日本が五輪で、フィギュアスケート競技でメダルを取れる時代が来るとは思ってもいませんでした。現在は五輪でも世界選手権でも、日本の選手は表彰台の常連ですから、本当にスケートが強い国になったと思います。
―― それを大きく牽引したのが本田さんですよね。4回転全盛期で男子フィギュアのレベルが一気に向上した時代、2002年のソルトレークシティー五輪4位、2002・2003年世界選手権で2度の銅メダル獲得など活躍されました。
本田
五輪には長野五輪も含めて2度出場しました。リンク中央の五輪のマークの上から滑り始めるというのは、4年に1度の特別なことで……。あの感覚は、今でも忘れられません。一番印象に残っている試合は、ソルトレークシティー五輪ですね。SPがあまりにうまくいき、2位という予想もしていなかった好成績をとってしまって。でもFSではミスを犯して、4位になってしまいました。とても悔しかったですが、次に進もうという気持ちにもなれましたね。
―― そもそも、スケートを始めたきっかけは何だったのでしょう。
本田
兄がスケート教室に通っていたので無理やり連れて行かれたんです。最初はショートトラックをしていたのですが、兄には勝てず、タイムで競うのは嫌だと思うように。そのころから、同じスケートでもジャンプやスピンをするフィギュアが楽しそうに見えたんです。「やってみないか」と声をかけられたこともきっかけで小学4年生のときに始めました。
始めてみたら、とても楽しくて! ジャンプもスピンも、興味のあることに挑戦できたし、新しい技ができるようになるのがうれしかったんです。でも、小学校のときに練習していたリンクが閉鎖してしまって……。そこからは新幹線で郡山から仙台のリンクに通う日々でしたね。中学に進学するタイミングで、中学3年間だけと決めて、父と兄を郡山に残し、母と一緒に仙台に引っ越しました。
―― 家族が離れて暮らすというのは、ご家族も相当な決断だったのでは。
本田
母親が何事に対しても「やらないより、やって失敗した方がいい」というタイプだったのです。やってダメならあきらめればいい。でも、あのとき、やっておけばよかった、と後悔するのが一番つらいと―― 。その母親の考えにも背中を押されましたね。これは、今でも大切にしている教えです。
4年後の五輪が想像できず引退を決意
―― その後、14歳のときに全日本選手権で史上最年少優勝、そこから6度全日本王者に輝き、前述のように五輪や世界選手権でも実績を残されました。
本田
2003年の四大陸選手権で、一度だけ審査員から満点をもらうことができたのはうれしかったですね。現在のルールは加点方式なので、少しでも点数を取れる構成を考えます。いろいろなことに挑戦できる半面、点数に天井がないというか、もっともっと高い点数をとらないと、と思ってしまう難しさがあるように思います。
一方、当時の採点方法は減点方式。9人の判定員が、技術点と表現力をそれぞれ一人6.0満点の持ち点で採点していました。グレーゾーンはありますが、点数の天井が決まっていたので、割と自由に自分が表現したい作品を作りやすかったように思います。振り付けやステップやスピンの回数など、自分が作品づくりに積極的に参加する楽しさもありましたね。
―― しかし、怪我などがたたり、2005年の全日本選手権を最後に引退されました。
本田
怪我の時期は、スケート靴も履けないですし、氷に乗れない時間が長くて。ドクターに相談したら手術をしなくても大丈夫だと言われたので、そのまま練習を続けていたのですが、その後の試合で怪我が再発してしまいました。自分の体調だったり、疲労具合をきちんと理解できていなかったということは、少し後悔しています。
2005年の10月に引退宣言をしたときは、左足が疲労骨折した状態で、右足もそれをかばって怪我をして、体中怪我だらけで。14歳でデビューして10年間闘い続けたので、これが自分の限界かなと感じた年でもありました。
4年に1度の五輪の存在は大きくて、次の五輪に向けて頑張れるかどうか、というのが引退を決めるポイントにもなりましたね。あの舞台を目指して、自分は4年間努力を続けられるのかと。自問しても、僕にはそのイメージが湧きませんでした。コーチも「自分の人生は自分で決めなさい」という人だったので、僕の判断を理解してくれました。
―― 現在は指導者としてもご活躍されています。スポーツ選手は、どこかで引退というシビアな決断をしなければいけません。フィギュアスケート選手はそのタイミングが早いケースが少なくない。引退の決断に寄り添うのも、指導者の難しいところではないでしょうか。
本田
そうですね。でもやはり自分の人生なので、そこは本人の意思を尊重することが大切だと思っています。僕も自分のコーチに言われたように「自分の人生は自分で決めなさい」というスタンスで生徒と向き合っています。
アドバイスをするとすれば……。特にスケートは悩みながら滑ることが怪我につながることもある。僕自身、それを痛感しています。中途半端な気持ちというか、気持ちが揺らいでいるときに怪我をすることが多かったので……。だから、悩んだり迷ったりしながらリンクに立つことはしてほしくない、と思ってしまいますね。
「こうしなければ跳べない」という枠にははめない指導を
―― 現在はどのような生徒さんを指導されているのですか。
本田
小学1年生から大学生まで20人ほどの生徒がいます。指導するようになって改めて思うのは、個性も成長のスピードも、一人ひとりまったく違うということです。センスの有無ですか? 本当に、それは関係ありませんし、努力で開花することはよくあります。運動神経がいいからフィギュアがうまいわけでもないですし、氷の上に乗って恐怖心がないとか、スケートを楽しんでいるとか、そういうことが大切です。
―― ご自身が得意だったジャンプの指導には、特に力が入るのでは?
本田
いや、逆にジャンプが得意だった分、ジャンプに苦労している生徒への関わり方の方が気を使います。どういう言葉をかければモチベーションを高められるのか、どういう指導をすれば跳びやすくなるのか……。難しいですね。
ただ、「こうしなければ跳べない」という枠にははめないようにしているんです。この子にとっては、どうしたら一番動きやすいのかな、という視点で常に考えます。時間がかかってしまう子にもじっくり向き合い、寄り添っていくことは心掛けていますね。
あとは何より「楽しい」と思えることが本当に大事ですよね。どの習い事でもそうだと思いますが、親にイヤイヤやらされている子は、成長が難しいと思います。フィギュアスケートをテレビで観る機会が増え、SNSなどで情報を集められると、子ども以上に熱心な親は少なくありません。それは悪いことではないのですが、この選手はこうだった、などと親が指導を始めたり、目標を高く設定しすぎるケースもあって。地道な努力や基礎練習を飛ばして上ばかり見ていても成長は難しいですよね。僕はまず、何よりお子さんがフィギュアスケートが好きか、楽しんでいるか、ということを大切にしたいと思っています。
―― 今、本田さんのお子さんにもスケートを指導されていますよね。
本田
正直、自分の子どもにはスケートだけはやらせたくなかったんですけどね。自分自身とても苦労しましたし、スケート界の難しさもありますから、別の競技をしてほしかったです……。でも、生まれたときから僕のアイスショーを観に来ているので、スケートが当たり前で。そうすると自然とスケートがやりたい、となりましたね(笑)。我が家はスケートが好きでやっているかどうかが一番大事。上手ではなくても、心からスケートを楽しんでくれていれば、それで十分です。
フィギュアスケートの裾野を広げたい
―― スケート界もこの数年で環境は変わっているのでしょうか。
本田
全国的にだいぶ、スケートを始めたいという子どもたち、生徒は減りましたね。(高橋)大輔に(浅田)真央、(羽生)結弦などが現役のときは、スケートの情報が多く、ゴールデンタイムでフィギュアスケートの試合の放映も多かった。でも、今はそれが減ってしまいました。スケートを観る機会の減少が、スケートを始める子どもたちが減っている要因だと思います。
なので、その辺りをどう巻き返すかを考えなければいけない時期にきたと思っています。テレビ放映には限りがあるので、それ以外の方法で、皆がスケートを始めやすい環境をつくらなければいけない。スケートに触れられるイベントを計画するというのもその1つで、ポケモンとコラボするスケート教室を開いたこともあります。もっと周知させることが、これからの課題ですね。
―― スケートはお金がかかるというイメージがあり、親としては尻込みしてしまう面もあります……。
本田
お金がかかるのは、トップ選手になってからです! トップ選手になるとリンクの貸し切り代や衣装代などもかかってきますが、スタートは普通の習い事と一緒ですよ。スケート教室の月謝は、1カ月数千円ですから。
あとはお金をどこにかけるか。必要のないところは、いくらでも省けます。僕は(世界選手権で銅メダルを取ったときのプログラム)アランフェス協奏曲もドン・キホーテも、衣装は知り合いのお母さんにつくってもらいました。スケート靴もピンキリですが、たとえばトップ選手が使っている靴などを買えば数十万円はかかります。それを子どもにも履かせたいという保護者はいるのですが、高いスケート靴が必ずしも子どもに合うわけではありませんからね。そういうところは本当にお金をかける必要があるのか、考えた方がよいかなと思います。
でも、子どもばかりでなく、40代、50代の大人になってからスケートを始める方も少なくないですよ。大人の方も長く楽しめるスポーツですから、ぜひその辺りもアピールしていきたいですね。
―― 本田さんの「スケート愛」は、解説の仕事をされているなかでも感じます。どの選手に対しても、ポジティブな言葉をかけていらっしゃいますよね。
本田
練習のときから、まずは一人ひとりの選手の良いところを見逃さないようにしています。それを解説中に、観ている人に伝わるようにパパっと話すことを大切にしていますね。そして、演技中はしゃべりすぎないことも意識しています。演技と選手がメインで、そこを邪魔してしまうとスケートではなくなってしまいますから。副音声だったらずっとしゃべっていると思うのですが(笑)。
―― ミラノ・コルティナ五輪は、改めてフィギュアの魅力を広めるチャンスにもなりそうですね。最後に、本田さんにとってスケートとは何か教えてください。
本田
人生の一部ですね。小学生のときから今まで、スケート以外の道を考えたことはありませんでした。スケートに出会っていなかったら自分は何をしていたのか、まったく想像がつきません。
今44歳で、2026年はプロ20周年になりますが、今でもショーに出て3回転ジャンプを跳びます。スケートが好きな気持ちは今も、これからも変わらないと思います。そのうえで、一年一年やりたいことを考えて、新しいチャンスがあれば様々なことに挑戦したいと思っています。昔母親に言われた「やらないより、やって失敗した方がいい」を胸に、自分が求めることにはまっすぐ進んでいきます。

