CASE4 イオン労働組合 大きく舵を切った労組の変革の担い手 働きがいを応援する 労働組合への大転身

労働組合は組合員加入率の低下、労使の二元構図の中での存在意義の希薄化など、さまざまな課題を抱えている。こうした中、新たな労組のあり方と存在意義を見出したのがイオン労組である。イオン労組はどのように変わったのか、そして新妻氏はどのように、この変化を主導することになったのだろうか。
労組への参画意識の低さ、無関心ぶりに呆然
イオンの労働組合は本当に面白い。
通常の労組の主要な役割は、待遇や労働条件の向上を経営(雇用者)に求めることにある。しかし、イオンの労組はそれにとどまらず、組合員の能力開発にも手を出せば、現場の風土改革にも積極的に携わっている点にある。組合員自らも店舗で自主的に売れる仕組みを考えるといったことが広く定着している。しかし、だからといって、経営べったりの労組ではない。能力開発も風土改革も、詰まるところ組合員の働きがいの向上が目的だ。
もっとも、イオン労組も1990年前半までは、他の多くの大企業のそれと変わらない、ふつうの労組だった。賃上げと労働条件の改善を求め、レクリエーションを通じて組合員間の親睦を図るといった活動を行っていた。このため、組合員の参加・関与意識はあまり高いものではなかった。
そんな現状を打破するには、労組そのものが大きく変わらなければならない。その志を熱く語りかけ、周りを巻き込んで、労組変革にまい進してきたのが中央執行委員長の新妻健治氏である。
80年、農学部畜産学科を卒業した新妻氏は、ジャスコ(現・イオン)に入社。新妻氏の出身県の宮城県の店舗に配属され、精肉の売り場担当としてスタートを切った。4年目には希望がかなって肉の仕入れ担当に就任する。組合活動の始まりは入社2 年目、非専従の職場組合分会長を務めたのが最初である。通常業務と組合の仕事のかけ持ちの生活が始まった。
「非専従の時代は、休日はすべて組合活動に費やす生活を送っていました。当時は現場で働く組合員の拘束時間の長さ、生鮮食品売場のきつさなどを何とかしなければならないと思っていました」
やがて、新妻氏は東北ブロックの役員になり、入社11 年目の91 年に、専従の組合職員にならないかと誘いを受けることになった。
新妻氏は、この誘いにずいぶん悩んだと語る。仕事にも夢を感じていた。一方、組合の仕事にもやりがいや重要性も感じていた。非専従の組合職員時代に、専従の人が来ていい話をしてくれたり、励ましてくれる姿を見ていて、格好いいとも思っていたという。
「結局、自分らしく活き活きしているのはどちらかと考え、組合専従になることを決意しました」
その後、新妻氏は書記長に抜擢される。95年秋のことである。
書記長としての初仕事で、前任者から引き継いだ組合組織の意識調査の結果を見た。ショックだった。それは、組合員1万人以上にあててのアンケートだったが、回収率はわずか3割。しかも、その3割の中で労働組合に対する参画意識のある人は4 人に1 人の割合でしかなかった。新妻は専従として忙しく動き回ってきた。それなりの充実感もあったが、現実は厳しかった。
「組合に無関心な組合員が増えていたが、執行部の中には『自分たちは一生懸命やっている』が仕方がないというあきらめや、自己満足の空気がありました」
しかし、新妻は、そうした現実をくやしいと思った。
「この時、この現実を何とか変えることを在任中のテーマにしようと決めたのです」
新妻氏の心に、組合改革の火が伴った瞬間だった。
組合手動のキャリアセミナー「ミドルエイジキャラバン」
新妻氏がまず力を注いだのが、中高年の組合員を対象に、それぞれのキャリアを振り返りながら勉強する「ミドルエイジキャラバン」の開催である。94年には、やがてくる組合員の高齢化の問題を考える「中高齢化専門委員会」を発足させ、さまざまな論議を重ねていた。
「この専門委員会の当初のテーマは、希望退職や早期退職制度の時代にどう対応するか、などが中心でした。しかし、私は専門書などを読んで、いろいろ勉強するうちに、これは、実は高齢化は問題ではないという結論に至ったのです。つまり、高齢化が進行しているにもかかわらず、労組や企業経営、本人自身もそれに対応していないということが問題の核心であるということです」
これが前述の「ミドルエイジキャラバン」を思い立ったきっかけだった。その目的は、将来に不安を持つ、中高年を元気づけようということである。
「ミドルエイジキャラバン」に応募した組合員は、職場を離れて1泊2日の研修を行う。この研修を実際に開くと、思い描いていた効果とは違うものが現れた。まず、集った組合員は中高年ばかりではなかったことである。そして、キャリアを話題に話し合うと、みんな話が止まらなくなる。学生時代、新人時代の輝かしいエピソードの話もたくさん出てきた。