番外編 CDC 企業間の壁を越えた自発的コミュニティ 社外の同じ役割を担う同志が集い 社会貢献と自らのキャリアアップを図る
キャラクターが異なるメンバーが「キャリア」というキーワードで結びついた。
2002年に発足されたCDC(Career Development Community)は数社の人事・採用・教育担当者が、企業間の壁を越えて組織した社外コミュニティ。
現在若手支援の研究を行っており、学会発表を目指している。
発足6年めの現在に至るまでの活動変遷と、現在の活動内容を聞いた。
社外異業種コミュニティCDCの誕生と問題意識
1990年代後半以降、ビジネスパーソンの資格取得に対する関心が高まっているが、キャリアコンサルタント(キャリアカウンセラー、キャリアアドバイザー)も人気の高い資格の1つである。特に2001年に厚生労働省が「5年間5万人育成計画」を発表して以降、資格取得者は増加傾向にある。
このような「資格取得熱」を背景に、数社の人事・採用・教育担当者が集まり2002年にCDC(Career DevelopmentCommunity)を立ち上げた。発足時の問題意識は2つ。1つは企業内でキャリアコンサルタント資格を取得する人が増えているにもかかわらず、実際はその資格を活かす場が得られていないこと。もう1つは、失業率の増加、若年層の早期離職傾向の強まりなど人材の流動性が高まり、ビジネスパーソンに自律的なキャリア形成が求められるようになっていること。キャリアコンサルティングへの潜在的ニーズは確実に高まっており、同時にキャリアコンサルタント有資格者も増加している。「ところがマッチング機能が希薄で、両者が結びつけられていませんでした。その溝を何とか埋められないかというのがCDC発足の動機でした」と立ち上げメンバーの1人、田中潤氏はいう。
田中氏の知己でもあったJMAMコンサルタントの山田学氏の呼びかけで、さまざまな企業から十数名が集まりCDCがスタート。最初の1年間は2カ月に1回程度集まり、「いったい、自分たちに何ができるのか?」との検討に明け暮れたという。
真の自律的活動への転換
明確な活動方針を打ち出せないまま、CDCの活動はいわば第二期に入る。発足時からアドバイザーとしてCDCにかかわっていた日本大学の外島裕教授の紹介で、大学生に対するキャリアカウンセリング業務を受託したのだ。
この活動は2003年から2005年までの3年間にわたって続いた。毎年10月から1 月までの4 カ月間、毎週2 回、CDCのメンバー2人が交代で大学へ出かけ、学生の相談を受けた。文字通りキャリアカウンセラーとしての実践の場であったが、残念ながら相談者の数は少なく、「活動としては最も停滞していた時期」だという。
しかしCDCはその後、閉塞感を打破し、再び活動を開始する。2006年5月、大学でのキャリアカウンセリング業務の受託が終了したのを機会に、「もう一度、集まってみないか」との声が上がったのだ。特に発足時からのメンバーは不完全燃焼だったと、田中氏はいう。閉塞していたと言いながらも、大学でのキャリアカウンセリングの経験が、「やはり何かやれることがあるはずだ」といった想いを醸成するベースになったともいえる。
開始から3年を経て、発足当初からのメンバーは6、7名が残るだけとなっていた。新たに立正大学の宮城まり子教授をアドバイザーに迎え、新メンバーも10名近く加えての活動再開。CDC第三期がスタートした。
全メンバー約20名のうち毎回10名程度のメンバーが2カ月に1回集まり、改めて活動の方向性について検討を開始した。当初考えていたのは企業の若手支援だったという。「どう考えても、現在の若手は我々が若い時よりも大変になっている。身につけるべきスキルが高度化しているだけではなく、明らかに業務が難しくなりました。かつては先輩に追いつくのが、最初にクリアすべき課題だった。ところが今は、先輩|後輩といった上下感が薄れ、何となく横並びのまま、何かしら新しいことを考え出すことが求められています。ここにいわゆる“即戦力傾向”が拍車をかけているので、若手のプレッシャーは大きいといえるでしょう」(田中氏、以下同)
さらに「第二新卒市場」という言葉が定着し、入社数年内での転職が一般化した。
「我々が新卒の頃は、20代で転職するなんてあり得ないという認識が広くありました。だからどんなに大変でもそこでがんばるしかない。しかし今の若い人は転職という選択肢があるだけ、逆に悩むし迷いやすい。そこを支援する必要性をメンバー全員が共有していたのです」
活動の方針として「若手支援がしたい」という想いはあったものの、具体的な案があったわけではない。そこでまずは実情を知ろうと、首都圏の6大学のキャリアセンター、大学に就職支援プログラムを提供しているベンダー、CDCメンバーの企業の若手社員19名にインタビューを行った。
「しかし、現実の成果に結びつけるのは難しかった」