連載 人材教育最前線 プロフェッショナル編 会社に頼るのではなく なりたい自分に自分でなる
玩具やアミューズメント施設、ゲームソフト、ネットワークサービス、映像ソフトなど、多岐にわたる事業領域を国内外で展開するバンダイナムコグループ。同グループ管理本部人事部のデピュティゼネラルマネージャーとして活躍する紀伊豊氏も、1990年代は香港でアジア地域にバンダイ製品を販売する仕事に奔走し、バンダイアジアの設立と発展に寄与した。海外での会社設立という一大事業に携わり、組織づくりを経験。その後研修を通じて、人を支援する仕事に魅力を感じ、自らの意思で人事部へ異動したという紀伊氏に、人事の仕事に対する想いを聞いた。
仕事のゴールは何かその追求が転機をもたらす
現在、バンダイナムコホールディングスグループ管理本部人事部デピュティゼネラルマネージャーを担う紀伊豊氏が人事部へ異動したのは、入社16年目の2002年。入社時に配属されたのは福岡の営業所。入社4 年目にバンダイ香港への出向を命じられ、以来人事に就くまでの12年間ずっと、海外事業に従事していたのである。
バンダイ香港への赴任が命じられたのは1990年。バンダイ香港は中国工場向けの開発、生産管理を行うことが目的の会社だ。紀伊氏も、ここで生産管理の仕事に就いた。
転機は赴任から1 年半後の1992年に訪れる。中国国内販売の可能性を見出すための中国本土出向である。福建省にある中国工場で、市場調査の仕事に携わることになった。今でこそ世界経済を牽引する中国の消費パワーだが、当時は可能性こそ大きいがまだまだ発展途上といった時代。アジア市場への販売拠点は、香港にもなかった。
4 年間の販売経験を買われての抜擢だったが、紀伊氏にとっては未知の仕事。市場調査のためのテスト販売の手法もよくわからない。所属上の上司、海外部門の上司、営業部門の上司、そして中国ビジネスのアドバイザーと4人いる上司に指示を仰いだのだが、それぞれに微妙に観点が異なっていた。「何が仕事のゴールなのか、具体的に何をやっていいのかがわからない。当時の私は若かったからか、やる気を失い、腐っていました」と紀伊氏。結局、1 年後の1993年5 月、バンダイ香港に戻ることになった。そして専任者として任されたのが、アジア販売の仕事である。
結果を出せなかった中国での仕事の反省から、「ここで結果を出さなければ」という思いにかられていた紀伊氏は、新しい仕事に心血を注いだ。
セーラームーン、ドラゴンボール、ガンダムと、アジアでも知られている商品を投入するとはいえ、アニメに登場するキャラクターが持つ“世界観”や“魅力”を訴求するには、現地でのテレビ放映は欠かせない。現地代理店を見つけテレビ放映を実現させ、放映スケジュールに合わせて商品を生産し、売り場でのプロモーションを企画する。それを、香港はもちろん、台湾で、タイで、シンガポールで、マレーシアで、フィリピンでという具合に広げていった。
会社設立に関与し組織づくりに奔走
仕事は、面白かった。やればやっただけ、売り上げが右肩上がりに伸びていく。初年度の1993年は、紀伊氏と香港人アシスタントの2人体制で売り上げ6億円を計上。その翌年には、もう1人の日本人マーケティング担当と、シンガポール人の営業担当、香港人アシスタント1人を加えた計5人で、前年の倍、12億円を売り上げた。
「火、水、木とオフィスで仕事。金曜日にアジア各国の現地へ出張して代理店と打ち合わせ、土日は売り場へ。月曜日に現地関係者と打ち合わせをした後に香港に戻るといった生活でした」
やがて紀伊氏は「アジアでの販売の仕事を、バンダイ香港の一部門として行うには無理がある」と考えるようになった。生産管理会社であるバンダイ香港内で、アジア販売業務を行うのは、仕事の進め方や社内規定などでやりづらく感じていたためだ。販売会社として独立できないか──次第にそう考えるようになっていったという。
当時バンダイは、アメリカ、フランス、イギリスなどに販売会社を持っていたが、アジアで販売会社は時期尚早ではないかというのがバンダイ香港の意向だった。ところが、1994年11月、バンダイ香港の役員会の席で、バンダイ本社社長を前にアジア販売についてのプレゼンテーションの機会を与えられた紀伊氏が、いずれは販売会社設立を考えていると発表したところ、社長から「すぐに独立すべきだ」と言われる。約半年後の1995年4 月の会社設立に向けて、紀伊氏が陣頭指揮を執ることとなった。通常業務をこなしながら、会社設立に奔走する。31歳だった。「必死でした。実際には会計事務所の方に会社設立の法的な手続きはお任せしましたが、組織づくりや就業ルールなどについては、私が中心になって決めました。机の配置といった事務所のレイアウトや名刺のデザイン、社名の提案や採用もやりました」
バンダイアジアという社名には、アジア全体をテリトリーに仕事をするのだという当時のメンバーの熱い想いが込められていると紀伊氏は話す。
会社設立と同時に、メンバーは社長以下15人に増加。この年の売り上げは20億円を超えた。1999年には社員は20人を数え、売り上げも40億円となっていた。