J.H.倶楽部

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月刊 人材教育 2011年09月号

人材教育最前線 プロフェッショナル編 地道で煩雑な日々の仕事からも 前向きに学ぶ枠組みを整備

妊娠、出産、子育て、介護の分野で、経営理念である“愛”を商品やソフト・サービスとして提供するピジョン。1957年の設立以来、右肩上がりの成長を続け、現在、「グローバルカンパニーとしての自立」をスローガンに海外への積極的な事業展開を行う。同社では、そのための不可欠な枠組の1つとして、自立型人材の育成をめざす人事制度の仕組みを整備し続けている。その推進役を担っているのは、執行役員 人事総務本部長 板倉 正 氏だ。営業職をはじめ多様な職種を経た板倉氏は、「人事の専門性を高めたいという思いが徐々に強くなっていった」と話す。そのココロを伺った。


執行役員 人事総務本部長
板倉 正(Tadashi Itakura)
1987年入社。営業商品本部販売部大阪店販促普及課配属。以降、マーケティング本部開発部開発管理課、経理部財務グループ等を経て、2003年人事総務部へ異動。2007年人事総務部チーフマネジャー、2009年1月現職。

ピジョン
1957年設立。企業理念を「愛」、社是を「愛を生むは愛のみ」とし、育児・マタニティ・女性ケア・ホームヘルスケア・介護用品等の製造、販売および輸出入、保育事業などを展開する。
資本金:51億9959万円、売上高:570億6100万円(連結2011年1月期)、従業員数:882名(単体、2011年1月現在)

取材・文/浅久野 映子、写真/高橋 美香

「ピジョン党」の姉からの“推薦”で入社

現在、ピジョンで執行役員 人事総務本部長を担う板倉 正 氏が入社したのは1987年。日本はバブル景気を背景に、採用は圧倒的な売り手市場だった。とはいえ、いつの時代も学生の就職活動は人生のターニングポイント。理工学部で応用化学を専攻していた板倉氏は、材料・化学系の企業の研究職に就くために就職活動を行っていた。それがなぜ、日本最初のキャップ式広口哺乳器を発売したピジョンに入社したのか?「実は、当時妊娠中だった姉が、ピジョンへのエントリー用のはがきを見て、熱烈に薦めてきたんです。ピジョンブランドといえば、当時から妊娠、子育て中の女性から絶大なる信頼を寄せられていました。彼女もまた、いわゆる『ピジョン党』の一員。大学の春休みの時期にちょうど出産で帰省していた姉の行動が全ての始まりでした」はがきを投函したその後、人事担当者から電話があり、面接を受けることになった。大学のOB、そしてその上司の2人と話をする中、会社の自由闊達な雰囲気に惹かれた。その流れのまま役員面接を受けることになり、採用が決定。ピジョンへの就職を決めた。「これも縁かな」と笑う板倉氏だが、今でこそ世界中でその技術と品質が認められるピジョンも、当時は上場を目前に控えていた状況だった。同社が店頭公開を果たしたのは、板倉氏が入社した翌年の1988年である。東証2部上場が1995年、そして1部上場に指定替えしたのが1997年……。バブル崩壊後の失われた20年で、多くの日本企業が苦戦を強いられていた中、ピジョンはずっと右肩上がりの成長を続けてきた。少子化という逆風の中でも、同社がこれほどの成長を実現できたのは、真摯な研究開発による商品力が消費者に高く評価されてきたからに他ならない。また、多くの一般家庭に、家計を支える「6つのポケット」(祖父母と両親)が存在していることも、業績拡大の追い風となった。それまで面接を受けてきた材料・化学系企業の堅苦しさとは異なるピジョンの企業風土に強く惹かれたと板倉氏はいうが、会社設立以来の発展の息吹を、まだ学生だった板倉氏も感じ取っていたのだろう。「採用が決まると、希望通り商品開発の仕事に配属してもらえると聞きました。応用化学を学んでいたこともあり、大学で学んだことが生かせると意気込んでいたんです。ところが入社直前の2月、『開発の仕事に就く前に営業の現場を経験してもらう』という内示が……。こんなはずではなかったのに、という思いを抱えながら大阪店の販売部へと配属されました」本人が意図しない人事ではあったが、こうして板倉氏のキャリアはスタートすることになった。

仕事に向き合うことを決意した大きな“転機”

当時の営業の仕事は、代理店を通じて百貨店、大型量販店、薬局薬店にピジョン商品を売り込む商談をするというもの。もともと営業志望ではなかったことと、配属先が大阪店ということもあり、なぜ?という思いが強かったと、氏は当時を振り返った。「でも、その後すぐに、ある同期のおかげで気持ちを切り替えることができたんです。というのも、半年ちょっとで同期が退職してしまったことが大きく影響しています。“人助けをしたい”という思いの強かったその同期は、会社で働くことでもっとお客様の近くでお役に立てると考えていたようです。しかし、現実の営業の仕事は、日々薬局薬店を訪問し、店長や仕入れ責任者の方に新商品の説明や企画の提案を行ったり、代理店の方との同行販売なども多く、初めて会う方に厳しく苦言を呈されたりすることもあります。理想と現実の違いに悩み、ついに彼は仕事を辞める決意をしてしまったのです」彼の決断は、その後板倉氏にとって自分自身を見つめ直す転機となった。「彼の退職で仕事量も増え、業務に追われる中、店舗の販売促進を提案する社内イベントが実施されました。簡単にいえば、コンサルタント役となって担当する店舗の改革を実施するというもの。イベント後、担当した店舗の店主から、大阪店の店長へ礼状が届き、店長からもお褒めの言葉をいただいたんです。こんな単純なことなのですが、仕事に真摯に向き合おうと思えるようになった大きな出来事でした」その気になりかけた翌年、「3年は販売の現場」で、といわれていたが、開発部へと異動になる。そしてその1年後の1989年には、開発管理課へと異動になった。販売の仕事に向き合おうと決意を固めた矢先の異動。さらに1年後も異動と、板倉氏自身の思いとは裏腹に仕事が変わっていったわけだが、ここには事業拡大に合わせて人を配置していかざるを得ない、経営側の事情があったはずである。1989年の異動は、本格化するIT導入に対応するためのものだった。1988年の店頭公開を経て、物流センターや研究所などの開設が続く中、開発のデータベースを構築することとなった。図面や仕様書を体系化する仕事の担当者として、入社3年目の板倉氏が任命されたのだ。「データベースって何だ、という状態でしたから、異動になった時は本当に驚きました。ITの知識はもちろん、情報管理に関しても、仕事をしながら学びましたね。SEをはじめ多くの外部スタッフの方と仕事ができたことも、非常に有意義な経験になりました」データベースを構築したことの達成感を味わう間もなく、今度は開発の“テーマ管理”を行うことになる。開発の意思決定フローやテーマ予算管理、社内における新製品のプレゼンテーションなど、次々と商品開発の仕組みづくりに貢献することになった。

激動の時代に迎えた数々のターニングポイント

そして1997年――ピジョンは東証一部上場を果たす。さらなる発展に向けて、経営陣は企業変革の必要性を強く意識していた。成熟した国内市場だけでは、会社の成長は期待できない。そこで発展をめざすには、海外市場に本格的に進出する必要があった。

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