連載 「偶然」からキャリアをつくる 第フ回 「自分で動くからこそ、 重要な“人”との出会いがある」
1972 年に白元より発売された「ソックタッチ」は、靴下が落ちてこないようにする液体くつした止め。当時は女子中高校生の愛用品たった。それが「ルーズソックス」の流行により、90年代前半より再びビット商品となる。そして、一昨年再び同社から「風水」を取り入れた芳香剤が人気を呼んだ。そのヒットの仕掛け人は「少女小説家」の顔も持つマーケッター・内木桂氏。彼女の“バラエティーに富んだ’職業生活を振り返ると、「Planned Happenstance 」を生み出す要因が見えてくる。
大学時代
デザイン会社を経営する父、カメラマンの母というクリエーターの両親の下で育った内木氏は、その影響もあり、将来はデザイナーになるという漠然とした希望を持っていた。大学ではアドバタイジングを専攻し、広告についての勉強をしていたが、大学時代に以前からファンだった漫画家・ちばてつや氏の公認ファンクラブに入会。そこで活発に活動することとなる。
もともとは、ちばてつや氏のマンガが好きというシンプルな理由で会に入った彼女だが、何気なく2代目のファンクラブ会長の役割を引き受け、解散寸前だった組織を一人で再構築したことが、その後の彼女のキャリアの基礎をつくることとなる(★ 偶然その1)。内木氏も「自分の出発点はここにある」と語る。
ファンクラブは全国に約700 名の会員と、12 ヵ所の支部を持つ大規模なもの。当時は、「ちばてつや」ブーム、特に映画化により、「あしたのショー」ブームが起きていた。「あしたのショー」の映画化に当たり、ファンクラブの存在は特に重要だった。というのも、普通の映画と異なり、アニメーション映画の場合は実在するスター(俳優)がいないため、プロモーションをする際には、いかにファンクラブに働きかけるかがポイントとなるo 当然のことながら、内木氏のファンクラブは重宝され、各種取材対応やいろいろなイベントに駆り出されたという。
そのうち、主催者側から声を掛けてもらうだけでなく、内木氏は自ら積極的に、各種のイベントでファンクラブの活動をさせて欲しいと売り込むようになった。プロデューサー的な役割を担いながら、ファンクラブの運営を楽しみながらやっていた。この時、内木氏は、
●セグメントされたコアターゲットを所有するCRM (Customer Relationship Management) 戦略の原点
●公認というお墨付きバリュー
●組織運営の方法
●会誌・関連商品の企画製作、物販
●会費の徴収や資金繰り
●テレビ局などのマスコミ対応
といったことを学ぶ。自ら[これが原点」と語るように、ファンクラブ運営で学んだことは、その後、内木氏のマーケティングスキルのコアとなっていく。
広告業界時代~白元入社まで~
大学卒業後は広告制作会社に就職。そこでグラフィックデザイナーとして、家電メーカーの広告制作を担当した。しかし1年も経つと、「机に向かって仕事をしているのがつまらなくなつた」(内木氏)。そこで、当時、付き合いのあった映画会社のプロデューサーに相談したところ、「それならうちに来ないか」と言われ、その映画会社に契約社員として入社する。そこでは邦画のPR を担当。この時、「広告だけなくPRがいかに重要かを学んだ」と内木氏は言う。
自己PR の広告ではなく、第三者PRの説得力の違いだ。話題性をつくるには“切り囗”が重要。極端に言えば、つまらない映画でも“切り囗”次第ではヒットする。その“切り囗”つまりコンセプトを考える仕事が、彼女の興味・関心にフィットしたのだ。
数多くの邦画を担当した後、今度は洋画の担当となる。しかし、作品がいわゆる“単館系” の文芸作品が多かっかことど言葉の壁”(英語のPR資料の翻訳など) があったことなどから、なかなか洋画の仕事になじむことができずにいた。
そんなころ、カメラマンをしていた母親が急病で倒れた。彼女は仕事をしながら介護に当たったが、半年後、母親は意識が戻らないまま亡くなってしまう。内木氏は、介護の疲れと肉親を失ったショックから、映画会社を退職する。
退社後は、実家のデザイン会社の仕事を手伝っていた。心身が次第に回復するにつれて、デザイナーの仕事をするにしても、単にデザインができるだけでは弱いと思い、コピーも書けるようになるために勉強を始める。
内木氏のキャリアの特徴を表すキーワードの一つに「勉強」がある。現状の自分に満足することなく、さまざまな節目(と後で思われる時期)に彼女は「勉強」している。どうしてその「勉強」が必要なのか、明確な理由をあげることはできなくても、キャリア・コンピテンシーのある人たちは、独特の“嗅覚”で自分にとって必要なスキルを身につけようとする。そして、それが決して計画的ではない点が興味深い。