J.H.倶楽部

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月刊 人材教育 2017年11月号

歴史に学ぶ 女性活躍 第3回 日本史上初のキャリアウーマン 橘 三千代

日本史上、さまざまな分野で活躍した女性たちの背景や環境を浮き彫りにする本連載。今回の主人公は、奈良時代に二代の天皇を育てた女傑である。下働きから徐々に頭角を現し、中臣鎌足の息子、藤原不比等の後妻にもなった彼女は、いったいどんな人物だったのだろうか。


梓澤 要(あずさわ かなめ) 作家
1953 年静岡県生まれ。明治大学文学部史学地理学科卒業。1993 年、『喜娘』で第18 回歴史文学賞を受賞。作品執筆の傍ら、2007年から東洋大学大学院で仏教学を学ぶ。著作に、『橘三千代』『阿修羅』『遊部』『女にこそあれ次郎法師』『捨ててこそ 空也』『光の王国』『荒仏師 運慶』など。最新刊は『万葉恋づくし』(新潮社)。

河内国の低い出自から

源氏・平氏・藤原氏・橘氏――権勢を誇ったこの四名族をさして「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」という。そのうちの橘氏はたったひとりの女性から始まった。

県犬養橘三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)――門地によらず自分の実力で這い上がり、ついには「大夫人(おおみおや)」(天子の生母)と崇められる頂点にまで達した女傑である。

三千代が生まれ育ったのは河内国古市郡尺度(ふるいちぐんしゃくど)郷(現在の大阪府羽曳野市)。広々とした農耕地にめぐまれ、誉田陵(ほむだのみささぎ)(伝応神天皇陵)や日本武尊(やまとたけるのみこと)の陵墓とされる白鳥陵(しらとりのみささぎ)など巨大古墳が点在する、早くから拓けた地である。朝廷の直轄地である県(あがた)や屯倉(みやけ)が数多くあり、犬養氏は番犬を育成し駆使してそれを警護管理する伴造(とものみやつこ)氏族で、いわゆる卑姓である。

河内はまた、早くから朝鮮半島や中国からの渡来人が数多く定住した地である。ことに西文(かわちのあや)氏は飛鳥の東漢(やまとのあや)氏や秦(はた)氏とならんでもっとも早い時期に渡来し、文筆と記録、徴税や出納の管理を以て朝廷に仕え、支族の白猪(しらい)氏、船(ふな)氏、葛井(ふじい)氏、津(つう)氏らは海運と通商で栄えていた。

彼ら渡来氏族は仏教を熱心に信仰し、それぞれの氏寺は学問教育の場所でもあった。当時の仏教は信仰よりむしろ、哲学思想、漢学、堂宇(神仏を祭る建物)や伽藍の建築、灌漑などの土木、天文学、機織、養蚕等の先進技術である。

そうした異国伝来の文化と技術が共存する、開明的な進取の気風の中で育ったことは、三千代の人格形成に多大な影響を与えたであろう。

飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に出仕

彼女がいつ二上山を越えて飛鳥の宮に出仕したかはっきりしないが、天武(てんむ)8年(665)に制定された氏女貢進(うじめこうしん)の制を期に、15歳前後だったか。大海人皇子(おおあまのみこ)(天武天皇)が兄の天智(てんぢ)天皇の子、大友(おおとも)皇子と戦って勝利をおさめた壬申(じんしん)の乱の際、一族の県犬養大侶(おおとも)に軍功があったことも出仕の足掛かりになったであろう。

地方諸国の大領(たいりょう)(旧支配氏族)が恭順の証しとして貢進する「采女(うねめ)」は、天皇や皇子が妻妾とするのが前提のため形容端正(かおきらきら)しき者――容姿端麗が条件だが、中堅氏族の娘である「氏女」のほうは宮廷の下級女官として天皇や皇子の宮で働く働き手である。三千代も最初は女孺(にょじゅ)とよばれる末端の下働きからのスタートだったろう。

女性の多い職場で頭角を現わすのは並大抵のことではない。骨身を惜しまず働き、他の者がいやがる仕事も代わってやる。コミュニケーション能力が高く、上司や同僚に好かれて孤立しない。主人への忠誠心が篤く、口が固い。たとえ野心的で上昇志向が強くても、それを表に出さない賢さも絶対に必要だ。三千代はまさにそういう女であったろう。

折しも時代は大きな変換点を迎えていた。天武12年(684)、天武天皇はかねて計画していた八色(やくさ)の姓(かばね)の氏姓制度を再編し、律令の編纂事業と史書の編纂を正式に開始。国際社会に名乗りを上げ認知させるため、超大国唐国の制度を積極的に導入する。

また、朝鮮半島の情勢も百済国滅亡以来、新羅や高句麗両国の関係が緊迫している。そういう国際情勢を的確に把握し判断して外交する国家戦略が是が非でも必要なのを、末端の三千代も肌で感じたはずである。

ことに、鵜野讃良(うののさらら)皇后の存在に目を見張った。皇后は積極的に渡来人の学者らから唐や東アジア諸国の法制や歴史を学んで夫帝と互角に討議し、欠かせぬ片腕になっている。天武には十人近い妃がおり、それぞれに子をもうけて情愛をもっていても、政治的なことをふくめてのパートナー、相棒は鵜野皇后だけである。

王族の妻になり、軽(かる)皇子の乳母に

20歳前後の天武13年(684)、長子葛城王(かずらきおう)を出産。夫は美努(みぬ)王という権力とは無縁な諸王の一人だが、三千代は宮仕えの中で出自や家の門地による差別がいかに大きいか思い知らされていた。誰某の妻、何氏の娘――女が宮廷で地歩を固めるためにはそれがまず必須条件だ。男の官人の世界では「徳行才用(とくぎょうさいよう)」といって氏姓や親の功績によらず本人の能力や適性によって登用されるようになってきていたが、女官の世界ではまだそれなりの身分が必要だった。その前年、皇太子草壁(くさかべ)皇子と正妃阿閇(あべ)皇女の間に軽(かる)皇子が生まれており、三千代がその皇子の乳母(めのと)(乳人とも)に起用されたのも王族の妻という社会的身分のおかげである。むろんそれまでの勤めぶりが評価されていたことはいうまでもないが。

夫との間に葛城王の他に、佐為(さい)王、牟(むろ)女王の二児が生まれたが、仕事は休まず続けた。乳母という仕事は単にをあげるだけでなく養育係、お守役である。江戸時代の徳川第三代将軍家光の乳母春日局(かすがのつぼね)が有名だが、両者は実の母子以上の強い信頼と情愛で終生結ばれていた。

三千代も自分の子らは身内や乳母に預けて皇子の養育に当たったであろう。夫の美努王はその間、筑紫の大宰府の率(そつ)(長官)に任じられて赴任したが、三千代は同行しなかった。

新国家体制づくりに邁進した天武天皇は、治世15年目の朱鳥元年(あかみとり)(686)、志半ばで崩御。ひと月後、草壁皇子のライバルである異母弟の大津(おおつ)皇子が謀反の疑いをかけられて自害に追い込まれた。草壁の母である鵜野皇后の仕業であることは誰の目にも明らかだった。

だが、肝心の草壁は病弱のためか即位せず母后が称制(しょうせい)する※。草壁は結局3年後、帝位に就くことなく28歳で薨去。翌年、46歳の鵜野は持統(じとう)天皇として自ら即位した。亡き夫帝がやり残した藤原京の造営と遷都、史書の編纂をし、孫の軽皇子が成長したら帝位を引き継がせる。その一念である。必然的に軽皇子の養育係の三千代の役割はより重いものになった。

もうひとり、持統に見出されて急速に台頭してきた人物がいた。それが藤原不比等(ふひと)である。

※称制:即位せずに政務を行うこと。

夫を捨てて藤原不比等の後妻に

不比等は中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智天皇)とともに乙巳(いっし)の変(大化の改新)で蘇我氏を滅ぼし、近江朝でその片腕だった中臣(藤原)鎌足(なかとみかまたり)の次男だが、近江朝が滅亡して不遇を余儀なくされ、下級官人である大舎人(おおとねり)からスタートして草壁皇子の宮に仕えた。彼もまた逆境から自分の才ひとつを武器に這い上がってきた人間である。

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