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OPINION1 リクシス 酒井穣氏│マーケティング思考が
切り拓く人事のキャリア
 人事がマーケティングを
学ぶべき理由

人事とマーケティング。一見異なる分野だが、人の心を知り、意欲を高め、行動を喚起するという点で、この2つは共通している。「マーケティングを活用してこそ、人事としてのキャリアも開ける」と語るのは、双方の実務家としてのプロフェッショナルであるリクシス代表取締役副社長の酒井穣氏だ。企業に貢献し、変革を起こす人事となるための方法を酒井氏が解説する。

酒井穣(さかい じょう)氏 リクシス 代表取締役 副社長

株式会社リクシス代表取締役副社長、 NPOカタリバ理事、プロ野球選手会顧問。
慶應義塾大学理工学部卒、Tilburg大学TIAS School for Business and Society経営学修士号(MBA)首席。
商社勤務後、オランダの精密機械メーカーにてエンジニアとして転職。約9年のオランダ生活を終えて帰国し、東証一部上場IT企業の人事担当取締役などを歴任。
2016年に、仕事と介護の両立支援を行う株式会社リクシスを創業し現職。
著書多数。

人事に求められる知識のなかで、人間の本質に関するものほど重要なものはないはずだ。そう考えて、心理学や脳科学を勉強している人事は多いと思う。実際、人事はよく勉強をしている。しかし、そうして学んでいることは、人事の実務に応用できているだろうか。人事の本棚に並んでいる難解な専門書は、実務に貢献できているだろうか。人事にとって、人間の本質に関する知識が重要であることは確かである。しかし少なからぬ人事は、これを実務に活かすという点について、残念ながら、失敗しているのではないか。

人事のキャリアと役割とは

この背景について考察しないまま、心理学や脳科学の本に手を伸ばしたり、ビジネススクールに通ったりしても、人事のキャリアは前に進まない。よく言われることだが、知っていることと、できることの間には大きな隔たりがある。だからといって、ジョブ型など、流行の人事制度に振り回されているばかりでもいけない。そのままでは、人事である自分自身が、低年齢化が止まらない早期退職制度のターゲットになってしまう。人事としてのキャリアを守るためにも、中途半端な学者に向かうような勉強はまったくおすすめできない(もちろん本気で学者を目指す場合はこの限りではない)。

採用し、育成し、制度を開発することには大きな付加価値がある。しかし、人事の実務としては、採用は紹介会社に任せ、育成は研修会社に任せ、制度はコンサルティング会社に任せている(アウトソースしている)のではないか。任せるだけとはいえ、こうした実務は、業務負荷が高い。かなり忙しいし、重要な仕事であることは間違いない。しかし、経営視点からすれば、こうした実務の付加価値は低く、労働集約型である。人材市場における賃金も高くない。だからといって、採用、育成、制度を内製すればよいわけではない。経営史のなかで、極端な内製主義、すなわち垂直統合型のアプローチがどうなったか、思い出してもらいたい。餅は餅屋なのである。

マーケティングで変革を目指す

これからの企業経営においては、これまで以上に、事業のコアコンピタンスに集中する戦略がとられていく。具体的には、企業の収益に直結する製品やサービスを「作って、売る」こと以外の領域は、できる限り自動化し、自動化できないところはアウトソースされていく。誰もが、なんらかの製品やサービスを「作って、売る」ことになるのだ。しかし人事は、相変わらず、紹介会社対応、研修会社対応、コンサルティング会社対応に追われている。しかし、こうした「買う」仕事ばかりではいけない。私としては、人事には、もっと大きな潜在能力があると考えている。

かつて、シェアードサービスとして、人事部を含むスタッフ部門がグループ企業として切り出され、人事がサービスを「作って、売る」ことにチャレンジした時代があった。シェアードサービスまでいかなくても、内部取引として、人事部が、研修などを社内に売るような制度の導入にトライした企業も多かった。しかし、こうしたアプローチは、社内に面倒な価格交渉を持ち込むことになり、社内のサービス取引コストを高めてしまう。結果として人事は、それ以前と似たようなサービスを提供しているにもかかわらず、内部コストだけを高めてしまうことになった。そして現在では、シェアードサービスという言葉は、実質的に死語である。

耳の痛い話ではあっても、こうした前提に同意してもらえる人事には変革の準備ができている。変革を目指すところには希望もある。そこでぜひ注目してもらいたいのが、マーケティングだ。

マーケティングもまた、人間の本質に関する勉強を続けている。ただ、マーケティングは、人事とは異なり、そうした勉強の結果をKPIとして問われ続ける環境で戦ってきた。そうした環境では、結果につながる知識が蓄積されることになる。翻って人事は「モチベーションを測定して問題を発見したら飲み会を推奨する」程度の知識しかもっていないことも多い。

考えるべきは収益へのインパクト

マーケティングの知識に精通している人材は、人事の知識に精通している人材よりも賃金がずっと高い。マーケティングでは、数千万円の高額報酬を得ている人材も珍しくない。これは、マーケティングの知識が企業の収益に与えるインパクトが、社会から信頼されている証拠である。では人事の知識はどうだろう。人事が勉強している知識は、本当に、企業の収益にインパクトを出せているだろうか。ともすれば、人事の勉強は、収益へのインパクトを考えることをあきらめ、自分の知的好奇心を満たすことを目的とするものになってしまってはいないか。

サイバーエージェント常務執行役員CHOの曽山哲人氏は、様々な場面で「人事制度は流行らないと意味がない」と述べている。そのために曽山氏は「従業員が制度にシラケる理由を考察すること」および「制度を浸透させるために従業員に刺さるキャッチコピーを発案すること」を推奨している(図1)。曽山氏もまた、制度を「買う」ことではなく(その制度が仮に社外のサービスであったとしても)それを従業員に対して「売る」ことを推奨していることがわかるだろう。日本における人事業界のプリンスとも言われる曽山氏に、マーケティングの知識があることは明らかだ。

従業員の“シラケ”と戦う

人事とマーケティングをつなぐ事例として、従業員の介護問題について取り上げてみる。まず、日本では、2025年までに、ビジネスパーソンの30%程度が、親の介護に直接的にかかわりながら仕事をすることになる。そして現在、多くの人事が、この問題を把握し、対策を進めている。企業によりまちまちではあるものの、時間の問題として、どこの企業でも大問題になっていく(図2)。

介護は、ある日突然始まる。シミュレーションでは、介護の始まりにおいて、ビジネスパーソンは、平均50日程度、介護環境のセットアップのために仕事を休む。客観的事実としては、平日平均2時間、休日平均5時間を介護に使ってしまうと、従業員は介護離職することが知られている。

少しでも介護の負担を減らすには、準備がとても重要である。準備していると、介護のために仕事を休まなければならない日数を大幅に減らせるからだ。だから人事は、まだ介護が始まっていない従業員に対して、仕事と介護の両立についての知識を届け、会社として整えている両立の支援制度を使いこなしてもらう必要がある。しかし多くの従業員は、親の介護を、自分ごととして考えることができない。危機意識がまったく足りていないのが普通だからだ。

曽山氏が述べる「人事制度は流行らないと意味がない」というのは、まさにこの部分である。いかに優れた人事制度であっても、従業員のなかで流行ってもらえないと、想定されているポジティブなインパクトを出せない。だからこそ人事は、介護への準備をうながすポスターを作成したり、イントラネットで特集を組んだり、管理職研修に介護のテーマを盛り込んだりといったマーケティング活動を行う。KPIを設定し、施策を打ち、結果をモニタリングしている。この場合、人事は、従業員の「まだ自分には介護の知識は必要ない」というシラケと戦うのである。

マーケティング実務の5つのプロセス

このように、人事の実務に貢献できるマーケティングの知識は非常に多い。マーケティングの知識は、人間の本質について考えることにとどまらず、それをいかに実務に応用するかという方法論の体系になっているからだ。そこで、明日からの人事の仕事に役に立つと思われるマーケティングの基本的な知識を、マーケティングの実務プロセスとして紹介してみたい。紙幅の都合で、マーケティングに知見のある読者にとっては、表面的な話になってしまうことについてはご容赦いただきたい。

マーケティングの実務プロセスについては、様々な表現がある。とはいえ、マーケティングの実務プロセスは、大まかに(1)環境分析、(2) STP、(3)マーケティングミックス、(4)計画の策定と実行、(5)KPIによる成果の評価と活動の改善、といったステップで表現されることが多い(図3)。

(1)環境分析

マクロ環境とミクロ環境の分析である。たとえば、マクロ環境としては、2025年時点の日本において、認知症と診断されている人は、1,100万人(認知症700万人、軽度認知障害400万人)になる。このとき、前述のとおり、約30%のビジネスパーソンの仕事に影響がある。では、ミクロ環境として、自社はどうなっているだろう。現在の状況だけでなく、将来、どうなるだろう。将来、従業員が抱える介護問題は、自社の収益に、どれだけの影響があるだろう。人事には、こういう分析をしつつ、対策を提案することが期待されている。ちなみにマクロには、従業員の3割は、いざ介護が始まったら、いまの仕事を続けられないと考えている。

(2)STP

STPとは、セグメンテーション(S)、ターゲティング(T)、ポジショニング(P)の頭文字を示している。セグメンテーションでは、たとえば、介護がいつ始まるのかという予測と、いざ介護が始まった場合の仕事への影響といった複数の軸で、従業員をセグメントに分けて考える必要がある。ターゲティングでは、セグメンテーションされた、たとえば1年以内に重たい介護が始まる従業員(介護離職リスクの高い人材)の支援ニーズを考える。ポジショニングでは、そうした異なるターゲットの異なる支援ニーズに対して、どのような価値を届けるのかを定義するのである。

(3)マーケティングミックス

マーケティングミックスにおいては、それぞれのターゲットに対して定義した届けるべき価値を、4Pで考える。4Pは、Product(製品)、Price(価格)、Place(流通)、Promotion(コミュニケーション)の頭文字を示している。人事の文脈でいうなら、Product(製品)は具体的な支援制度など、Price(価格)は従業員がその制度を使うときの時間的コスト(機会費用)など、Place(流通)はオンラインなのかリアル研修なのかなど、Promotion(コミュニケーション)はポスターやイントラネットといったことになろう。

(4)計画の策定と実行

計画の策定と実行とは、マーケティングミックスで定めたターゲット別の4Pについて計画を策定し、その計画を実行するステップである。多くの人事は、ターゲット別に研修計画を策定し、その計画を実行することには慣れているだろう。ただしそれも、過去に策定された階層別研修を修正しながら使い回すといった活動になっていれば、付加価値は極端に小さい。この付加価値を高めるためには、前工程となる(1)~(3)を大切にしつつ、変化する環境に対して、研修計画を常に刷新しなければならない。

(5)KPIによる成果の評価と活動の改善

KPIによる成果の評価と活動の改善は、人事の文脈に導入することが難しい。特に、研修の効果を理解すること(教育効果測定)は、絶望的に難しい。本来であれば、企業における教育効果測定は、導入した研修の結果、どれだけ収益が改善されたのかを正確に理解するためのものだ。しかし教育には、それを導入してから効果が出るまでのタイムラグがある。だからといって、教育の効果をいつ測定するべきかについて、実用に耐える指針は存在していない。せいぜい、研修後にアンケートが実施されている程度であろう。そのアンケートも、研修の満足度に主軸が置かれていることがほとんどである。しかし、研修の満足度が、企業の収益に貢献するかどうかは、まったく不明なのである。

教育効果測定として、教育後の人材の行動変容を観察するという方法(エスノグラフィー)もあるにはある。しかし、こうした教育効果測定には、莫大なコストがかかってしまう。つまり、究極的に、人事の仕事が社会から高く評価されにくいのは、人事活動の成果を、こうした財務の視点から評価することが困難だからである。「従業員は、人事の施策に満足しています」と伝えたところで、人事の賃金は上がらないのだ。

HRBPの真価とは

こうした根本的な課題を解決するためにこそ、HRBP(Human Resource Business Partner)が注目されている。HRBPのことを「現場に近い人事」くらいに考えていると、判断を大きく間違う。HRBPは、人事としての自らの仕事の評価を、事業部の目標達成に重ねることで(5)KPIによる成果の評価と活動の改善を行う。要するに、人事が「作って、売る」というコアコンピタンスに入り込むのである。具体的には、短納期化、高品質化、低コスト化、マーケットシェア拡大、顧客満足度向上、売上改善、利益改善といった測定可能な目標を、事業部とともに、人事ももつ。これがHRBPという概念の真のインパクトなのである。

いかに人事の仕事にプライドをもっていたとしても、コスト部門のコスト要因として扱われてしまえば、キャリアの未来はない。そして人事がコスト要因と考えられてしまうのは、繰り返しになるが、人事の仕事を財務の視点から評価することが難しいからである。しかし、HRBPとして「作って、売る」というコアコンピタンスに対してより直接的に貢献し、その貢献が財務的に評価されるとしたらどうだろう。つまりHRBPとして働く人事の評価は、事業部の目標達成に連動するのである。

それができたとき、人事はもはや、社内に対するマーケティング部門である。人材の視点から、事業部に対して、外部の専門性を「売る」仕事になる。それはある意味で、人事が、社外の紹介会社、社外の研修会社、社外のコンサルティング会社の仕事のマーケティング要素を奪うことでもある。HRBPとして活躍するために、マーケティングの知識が求められるのは、当然のことなのだ。

人事は、かつての牧歌的な人事ではいられない。学者の道を目指すなら別だが、心理学や脳科学ばかりを学んでいても、人事のキャリア不安は消えない。それに気づいている人事は多いだろう。その閉塞感の出口として、まずは、マーケティングの教科書を手に取りつつ、社外の紹介会社、社外の研修会社、社外のコンサルティング会社のマーケティングに学び、時には支援することさえも提案したい。本稿が、そのきっかけとなれたら幸いである。

Learning Design 2021年07月刊

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