Vol.9 集団のパフォーマンスは意義共有と合意で決まる
社内運動会、社内旅行復活の願い
ここ数年、社内運動会、社員旅行など、バブル経済崩壊後の不況時に廃止したものを復活させる動きがあるそうです。某新聞社のデータベースを検索すると、確かに、社内運動会、社員旅行に関する記事は、この数年で増えているようです。記事の内容についてはざっとしか見ていませんが、比較的好意的な書きっぷりのものが多いように感じます。
社内運動会、社員旅行……。これらの試みを実施する背景には、社員が集まり、わいわいと何かに取り組むことのできる“非日常のイベント”を通して、失われつつある「職場の集団凝集性(まとまり)」を向上させたり、職場を活性化させたりしたいという願いがあるように思います。
言うまでもないことですが、現在、私たちが過ごしている職場は、“かつての職場”とは違います。社会背景も、雇用形態も異なるさまざまな人々が出入りし、さまざまな形で働くようになっています。インターネットの影響もあって、コミュニケーションチャネルも多様化しました。
少なくともかつてよりは、職場の人々がアトム化(原子化)し、個と個が分断されがちな状況が生まれつつあります。仕事とプライベートの関係を、明確に線引きする人も次第に多くなってきているのではないでしょうか。
職場の人々の間にまとまりがなくなり、バラバラになる。そして活気が失われる。そうであるがゆえに、チームとして動くことができない。職場として、なかなかパフォーマンスも上がらない。そのような問題に悩んでいる人は少なくないように思います。このような中、社内運動会や社員旅行など、何らかの形で「社員と社員が互いにかかわらざるを得ない状況」を設定すれば、今一度、職場のまとまりを再生できるのではないだろうか。そのことがひいては、職場の活性化につながり、パフォーマンスの向上にもつながるのではないか──経費節減の圧力が増していくような状況でもあえて、社内運動会や社内旅行を計画する背景には、このような“願い”があるように思えます。
集団のまとまり向上≠パフォーマンス向上
しかし、こういう話を聞くたびに、僕は思うことがあります。僕の疑問は素朴です。
「集団の凝集性(まとまり)を一時的に向上させることで、本当に、職場のパフォーマンスは向上するのかな」
今、仮に職場のパフォーマンスをPとします。そして、集団凝集性をN、集団のメンバーがどの程度、目標や仕事の意義を共有しているかの程度をCとします。
そうすると、
P≠N
だと思うんです。むしろ、
P = N×C
なのかな、と思ってしまいます。
文章で表現するとこうなるでしょうか。
「集団の凝集性をいかに高めても、職場のメンバーに自分たちが目指すべきものや、自分たちの仕事に対する意味や意義が共有され、合意されていなければ、パフォーマンスにはつながらないのではないか」ということです。つまり、職場の結束力の強さをもってしても、結局、何を実現し、何を目指すのかに関して、きちんと職場のメンバーでコミュニケーションがなされており、コンセンサスが得られていなければならないということですね。
意義が共有される集団が強い
もちろん、社内運動会や社内旅行が悪いと言っているわけではありません。それは集団の凝集性を一時的に高めることには寄与するのかもしれません。運動会をやって、職場ごとのリレーなんかをやってみれば、いやでも“職場”というものを意識せざるを得なくなりますよね。また、旅行に行けば、普段横でキーボードをカタカタいわせている同僚の意外な一面を発見してしまうかもしれません。
しかし、集団の凝集性は、あくまでパフォーマンスを決定する変数のほんの1つに過ぎません。むしろ、それはパフォーマンスを決定してしまう変数を下支えする基盤に近い変数なのかもしれません。
おそらく、それ以上に大切なことは、「いかに集団で目標や仕事に関する意義が共有されているか」ということではないでしょうか。これは仮説の域を出ませんが、高いパフォーマンスを誇る集団というのは、「凝集性(まとまり)があって、さらにそのメンバー間に目標や仕事の意義に関して、コミュニケーションとコンセンサスがある集団」ではないかと思います。
集団のまとまりがやたら強くても、そこでしょーもないことが共有されている場合には、結局、凝集性がアダになってしまうようにも思います。たとえば、集団の凝集性が高い組織で「営業に関する時代遅れの信念」が共有されていたとしたら、むしろ逆効果であるようにも思います。自分のこれまでの経験から、「結束力はやたら高くても、しょーもないことにコンセンサスを見出していて、しょーもないことしかできない集団」をたくさん見てきました。皆さんには、そのような経験はないですか。
“対話”こそ共有のキーワード
繰り返しますが、社内運動会や社内旅行を否定する気持ちはありません。しかし、それと同等か、あるいはそれ以上に大切なのは、職場の中で、どのように自分たちの仕事やあり方に対して、意味や意義を合意・共有するのかということではないか、と僕は思います。
そのためには、どこかでそういう“場”を持つか、あるいは、そういうことを共有できる機会をつくらなければならなくなると思います。そして、おそらくは、そうした場や機会で必要になるのは、“対話”ということになるのだと思います。お互いの違いを隠さず話し合い、相互に理解を深める機会が、どうしても必要になるのではないでしょうか。
社員旅行や社員運動会が、そうした場として機能するハズだとおっしゃる方もいるかもしれませんね。もしそうだとしたら、それでいいのだと思います。しかし、ともすれば、社員旅行は「飲んで歌って終わり」になりがちです。また、社員運動会は「走って飛んで終わり」になりがちなのではないでしょうか。もちろん、綿密にデザインされている社員旅行、社員運動会もあるのかもしれません。ぜひ、その辺りは教えていただければと思います。
もし仮に、社員旅行や社員運動会で、仕事のあり方や意義を共有することが難しいのであれば、それとは別に、さまざまな場や機会が必要になるでしょう。
某製薬会社のある事業部では、自分たちの仕事を折に触れ振り返り、共有するためのワークショップを職場で実施しているそうです。そのようなプロセスの中で、普段横で仕事をしているあの人が、何を思って仕事に打ち込んでいるのか──相互理解が進んだという例も聞きました。僕としては、このような職場単位のワークショップ(Workshop in Workplace)に可能性を感じたりもします。
社内運動会でもなく、社員旅行でもない「第三の場所」をどのようにつくっていけばよいのか。この問いは、近未来のワークプレイスラーニングのあり方を考えていくうえで、非常に重要な問いなのではないかと思います。