Vol.5 プレイングマネジャーだからこそ部下が育つ.hml
憂鬱なプレイングマネジャー
今月の話題はプレイングマネジャー(Playing Manager)です。これがもし、ジャズバンドをリードするスウィングマネジャー(Swing Manager)ならば、ドゥビドゥバドゥビドゥワーという軽快なドゥワップメロディに乗せて身体をクネクネと揺らす、陽気でハッピーなマネジャーを想像してしまうのですが、今回の話は、どうもそういうことではありません(笑)。
ご存じの通り、プレイングマネジャーとは、自分もプレイヤーとして実務(達成目標)を抱えながら、部下の管理もしなければならない管理職のことを指します。
人材育成の世界では、
「最近は、マネジャーはプレイングマネジャー化していま
すから、なかなか部下の面倒を見て育てる時間がなくて……」
といったことが、よく言われます。このように、プレイングという言葉は、どちらかというと、現場の多忙感の切迫さなどを指し示す“ネガティヴなコンテキスト”で使われることが多い言葉ですね。
確かに、自らもプレイングしながらマネジメントを行うことは大変なことです。
かつて、経営学者でロンドンビジネススクール教授のR・ゴーフィーは、「リラクタントマネジャー(嫌々ながらのマネジャー)」というコンセプトを提示しました。ただでさえ、マネジメント業務は“嫌々ながら”になりがちであるのに、さらにプレイングの要素が加わったのだとしたら、グルーミー(憂鬱)になりたくなる気持ちも、わからないではありません。
プレイングマネジャーにしかできないこと
しかし、そのことを重々承知していつつも、教育学者としての僕は「プレイングであることは人材育成にとって、大きな可能性を持っている」ことを指摘せざるを得ません。理由はいくつかありますが、ここでは、そのうち大きなものを3つご紹介します。
●理由1:学ぶとは真似ること
確かにプレイングマネジャーは忙しく、直接人に教える時間もありません。しかし、彼・彼女らがプレイングしている状況は、つねに部下の「まなざし」の中にあります。実際に直接教えなくても、部下は、いわゆる観察学習を通して、「あんな風にやればいいのか」と学ぶ機会が持てるのかもしれませんし、「あんな風になりたいな」と思うかもしれません。
「学ぶ」の語源は「まねぶ(真似ぶ)」。つまり学ぶこととは、真似をすること。換言すれば“モデリング”にほかなりません。プレイングな状況にあるマネジャーが“ロールモデル”になることは、部下の成長にとって、とても重要なことであるように思います。
もちろん、ここには、ネガティブな学習が起こる可能性もあります。上司の行動が不誠実であったり、信頼に欠けるものであったりすれば、それも“学習”されてしまうのです。上司であるということは、部下のモデリングの対象になるということを意味します。
●理由2:教育的瞬間をつかむ
実際のプレイングが、もし、“マネジャーの孤独な”プレイングではなく、“上司と部下の両者による”プレイングとして実現するならば、さらに成長の機会が向上するように思います。
教育学者のヴァン=マネンは、「今、ここで、助言・指摘を与えるべき瞬間のこと」を「教育的瞬間(The Pedagogical Moment)」というコンセプトで表現しました。
部下に助言・指導を行う時でも、「適切なタイミング」というものがあります。“あさっての瞬間”にフィードバックをしても、言われたほうからすると、「なんで今、言うの」と思うだけです。いわゆるお節介にしか聞こえません。
しかし、この教育的瞬間を見抜くこと、その瞬間に適切なフィードバックを与えることは、容易なことではありません。なぜなら、教育的瞬間は、部下が「本来何かをなすべき瞬間」にマネジャーが居合わせていることが条件になるからです。
つまり、教育的瞬間は、マネジャーと部下が、“共にプレイングしている瞬間”に訪れることが多いのです。だから、プレイングしているマネジャーほど、教育的瞬間を把握できる可能性が高くなるのです。
●理由3:納得感がある
これは、極めて“情動的”なものです。僕個人の問題かもしれませんが、皆さん、どうですか?
上司やマネジャーがプレイングな状況にいるからこそ、ここぞという時に、何かを言われても、腹に落ちるのではないでしょうか。
「現場で頑張っているあの人が言うんだから、そういうことなんだろう」
という感じで、思わず、説得されてしまうことはないでしょうか。もしプレイングしていないマネジャーに、何かを言われたとしても、素直にその教えの意味を理解できるのでしょうか。
言われたことを聞きつつも、心の中では、
「うーん、もう現場にいない人に、あれこれ言われてもなー」
と思ってしまわないでしょうか。
“闘う君の歌”(『ファイト!』by中島みゆき)の真贋を、“闘わない人”にあれこれ言われる。このことを、つい不条理に感じてしまわないでしょうか。
このような理由からマネジャーの“プレイング”の要素は、人材育成にとって、とても重要であると考えています。
人は“プレイングな人”からより多くを学ぶ
自戒を込めて言いますが、研究者の世界も、これに似た構造はあります。博士号を取得し、職業として大学教員になり、研究室を運営するようになった頃には、研究者にも「プレイングな研究者」と「プレイングではない研究者」が現れてきます。もちろん、プレイングな研究者は、忙しくて、懇切丁寧な指導を行うことは難しい状況にあります。
しかし、誠に奇妙なことですが、多くの場合、卓越した思考を持つ大学院生は「プレイングな研究者」のもとから育つ傾向があるようです。教員もプレイングしていますから、直接教える時間的余裕はありません。しかし、そういう人のもとから、多様な人材が輩出される傾向があるのは気のせいでしょうか。
仮説ではありますが、人は“プレイングな人”からより多くを学ぶのではないかと思います。学び、助言、指導……どんな言葉を使ってもよいけれど、いずれにしても、効果的な学びの支援とは、「in situ(状況の中)」で行われるものだし、「今、ここ」というタイミングを逃すと、その効果は半減するのではないでしょうか。そして、プレイングであることは「in situにおける学び支援」にとって、重要であることにも思うのです。
僕自身も、プレイングな研究者、さらに言うならば、スウィングなプロフェッサー、陽気でハッピーなプロフェッサーでありたい、と願います。陽気でハッピーなだけだと、困るのですけれども(笑)。