第118回 「高度疑心暗鬼社会」からの脱却(その1)

この数年間、企業の人材開発に携わる方々から新人の育成について共通の悩みを耳にしてきた。

「新人研修の時に、あまり厳しいことは言えないんですよ。叱ったりすると、すごくへこんだり、場合によってはその後こちら側に対して全く心を閉ざしてしまうんです。」、「配属先から聞こえてくるのは、遅刻とか基本的なことでも叱ったらダメだっていうことです。怒られたことがないというか、少ないんでしょうね。」恐らく、読者の皆さんもこの類の話は聞いたことがある、あるいは体験されてきたのではないだろうか。

今から14年前、「変革リーダーの技術」という本の中で、「叱る」と「フィードバックを与える」は全く違う、と書いた。相手の心の準備が出来ていないにもかかわらず、いきなり声を荒げたり、相手の人格否定をしてしまうようなことをやってはいけない、という趣旨だ。当時はまだ「パワハラ」とぃうことばはなかったと記憶していると思うが、パワハラになるような叱り方ではだめであることは言うまでもない。それを踏まえても、新入社員に指導をする中で、「フィードバックを与える」時には、細心の注意が必要である、というのは良く聞く話である。

「今の若者は、少子化の影響もあって過保護に育てられてきた。だから怒られた経験がない」という通説は一理あるかもしれない。ただ、それだけではない。第一、この手の言説だけを信奉したがる人の隠れた前提は、「若者はひ弱だけれども、我々は強い!」などいうのは、「自己正当化欲」である。自分の世代の正当化がチラついて見えてしまう。

前回のメルマガの最後に、「思考停止の高度不信社会」あるいは「高度疑心暗鬼社会」になってきたことに触れた。高度成長期、最後の宴としてバブル経済、その崩壊から続いている「失われた25年」。そして、気がつくと疑心暗鬼が、若者だけではなく社会全体に蔓延してきたのではないだろうか?というのが、これから三回に分けてお伝えしたい最後のクリティカルトークだ。

ところで、この数年、私も企業研修の中で気づいたことがある。それは、こちらが褒めた時の若手参加者の反応だ。私は今でも、新人研修から役員まであらゆる層のセッションをやっている。海外でも外国人に対してもやってきたのはこのメルマガの読者ならご理解頂いていることだ。加えて、コンサルタントや外部講師にも指導する。いつでも、どこでも、英語でも日本語でやっていても、こちらは参加者の良いところは良いと、当然褒める、というか指摘をする。

もちろん、最初から双方向のやりとりが激しいワークショップをやっているし、育成のために必要な辛口なことを言わなければならない。若者に限らず、「フィードバックを与える」時には、誰に対しても慎重に行うし、なによりも、「相手の見極め」をしながら行っている。つまり、「この人ならここまで言っても、受け止めてくれるだろう」という読みだ。この読みを間違えることもあるが、相手の観察を怠らなければ24年間、毎年2000人を手抜きなしに見ていれば精度は上がってくる。

従って、冒頭紹介した人事関係者の悩みについては、全く同感だ。ましてや、私は外部コンサルタントであり、講師であるから、「よそ者に厳しいことは言われたくない!」というオーラを発散している参加者に遭遇するのは日常茶飯事で、それはなにも若者に限らない。辛口フィードバックを50代、60代の人にも言わなければならないし、そんな時に高度に防衛的なしかも、老獪な逃避思考のパターンになる人は少なくない。むろん、30代でも40代でも防衛的な思考は誰にでもある。

それでも、そんな人にも、スキル向上のため、閉ざしてきた知的アンテナ向上のため、そしてなによりも、本人の残りの人生のために、フィードバックを与えてきたし、場合によっては励まし、全身全霊、誠心誠意、一期一句に気を配りながら伝えてきた。それを生業としていれば当然のことだ。自分が出来ていないことは棚にあげながらやらなければならないので、その罪を背負いながら今でも生きている。生業(なりわいと)は「生きながら背負う業なんだ!」って今気づいた。職業じゃないよ!

こちらも生身の人間だから語調も語気も強くなることがある。本気でやるからだ。多くの人材開発者はそれを見て「よくぞ、彼にあそこまでやって頂きました。いやあ、彼には誰も手をつけられないので、心配していたのですけど本当にありがとうございました」と言って頂ける。ありがたいのはこちらの方だ。目の曇ったとは言わないが、杓子定規な考え方しかできない人材開発担当者や事務局の人間が逆ギレして、私に噛みついてくる、ということもこの24年間で2回だけあったからだ。世の中なにがおこるかわからない。だから、私はこの仕事が飽きないし、辞めたいと思ったことはない。「辞退頂きたい」と言われたことは人生で一度、ある団体以外はない。

つい3日前のことであるが、ある65歳の方が「新しいことを学ぶために、来ているんですから、どんどん(厳しいフィードバックも含めて)お願いします!」と言ってくれた。私には計り知れない人生経験を積み、そして、笑顔を絶やさない参加者の1人だった。「ありがたい」以外ことばがみつからない。

さて、話をもどそう。私が参加者を褒めたときの反応だ。

企業研修は、以前も紹介した「研修のお通夜」という状況で始まる会社が圧倒的多数だ。これはその企業の社風があらわれるので、「うちは違います!」という読者もいるだろう。そんな中で、私は、参加者のリラックスしたボディランゲージをしている人を褒める。畏まって聞いているフリはするけれども、頭の中は別のことを考えるのは、残念ながら会議も研修も見られる光景だからだ。私が求めているのは逆、つまり、リラックスしアタマはフル回転、しかも本気、本音で自分にチャレンジし、学ぶべきを学び、自分達の課題も会社の課題も遠慮なく議論をするという状況をつくりだしたい、どこでもそこからはじめる。

「研修のお通夜」というアイスをブレークしてからは、つまりアイスブレークが終わったら、褒めることが見つかる。アイスブレークの前に褒めるのは、シラケるからだ。このことに気づいていない外部講師はあまりに多い。どこの馬の骨ともわからぬ人、それは大学教授、外資コンサルなどという肩書きがついても、参加者からみたら、赤の他人である。

関係性ができていないのに、参加者から、「あなたに褒められる筋合いはない!」と思われても仕方がないからだ。「肩書き」でやっている講師はこのあたりのセンシティビティがあまりに欠如している、と断言するのは、かつて在籍していた(95年11月から99年6月)グロービスでは企業研修の「アテンド」も数年していたからだ。

肩書きだけに平伏さない、心眼のある人材開発者は私に同意する。ところが、「肩書き」に平伏している人事事務局は、そんな参加者の状況よりも、「講師控室」に「先生」を連れてお茶を飲んでいるから、余計にこの事に無関心な「先生」が跳梁跋扈している、どころか増加している。「研修バブル」の罪は深い。

アイスブレークを終えて、受講生と関係性を築いているか、否かの読みもかなり注意するというのは24年間かわらない。コンサルタントにファシリテータースキルを教える時にもこのことはかなり協調している。一旦、参加者との関係がある程度できたら、いいところは指摘する。アタマの回転スピード、言語化能力、知的好奇心の幅や深さ、そしてこれまで積んできた実績、それが音楽であれ、スポーツであれ、そして学業であれ、私が感心したことだけではなく、他の参加者が感心するようなことは、いつでも、どこの国でも、だれに対しても率直に褒める、というか指摘する。

反対に、ありきたりのMBAフレームワークの単語だけ知っていて中身が伴っていない者には厳しく指摘する。例えば、「フェルミ推定」をことばと知っていても、エンリコ・フェルミの功績について知らないで話しているようなMBAホルダー、外部講師、あるいはコンサルタントには遠慮しない。「学位はく奪だ!」と冗談半分、本気半分でつたえる。ましてや、その人間が工学部出身で修士までとっていたり、自己紹介のときに誇らしげにサイエンスをやっていたという人間には、さらに先の質問をする。具体的に「では、エンリコ・フェルミの名前をとった元素記号を書いてください」などいうお題を出す。物理をやった、という人でも名前ぐらいしか聞いたことがない、という人があまりに多い。

その一方で、工学部出身の人が、フィリピンでプラント建設に携わっているころ、エドワード・サイードのポスト・コロナイゼーションの話に感銘を受けた、とか、情報工学系の参加者がチョムスキーの生成文法理論は当然知っていても、「9・11」同時多発テロ後のまさに「クリティカル・トーカー」としての彼の姿勢に共感したなどという体験を参加者が語る時には、褒める。というか、率直に素敵だなあ、あるいは「お主なかなかやるではないか」と思うし、多くの参加者にそのように、広く深く知的アンテナをはり、残りの人生学び続けてほしいからだ。

英語だけで、外国人にワークショップをやっていると、そんな「越境学習者」(理系・文系とか安直な学問の壁を作らず学び続けている人)はフツーに出てくるし、しかも褒めた時に、周りも一緒に「Wow!」とか言うのでもりあがる。念のため、チョムスキーの話はアメリカなら教育を受けた人なら認知率は高いのでこの事例ではない。(最近、ここまで書かなくては勉強していないだけではなく、私の文章の脈絡を読まない、もしくは読めない人もいるので、老婆心ながら)

一方で、多くの日本人はこれも年齢に関係なく、こそばゆい、居心地が悪い、恥ずかしい、などの感情から、照れ笑いを浮かべたり、うつむいてしまったりする。率直に「ありがとうございます」と言う人は少数派だ。

ところが、この数年気になってきたのは、私が褒めたときに、「やめてください!」どころか「私のこと放っておいてください!」というオーラを出す人だ。もちろん、彼等彼女たちはことばには決して出さない。別にこちらは歯の浮くような世辞を言っているのでもなければ、その人をいじりっぱなし、という状況でもない。

「この講師とは合わない」という判断をされる参加者の存在は、こちらとしては織り込み積みなので、私はそんな場合は、そんなサインを受けたらそのような参加者はそのままにしておく。ところが、ありとあらゆるお題を出していると、そんな方が20名の中でただ一人出来たりすることがある。そうすると褒めることになるのだが、そんな時には再び、シャットダウンされてしまう。

「褒めた時の参加者の反応」について、もう一つ、問題提起しよう。ファシリテーターの鉄則とも言えることだが、特定の人だけを褒めるのはよろしくない。驚くような研修費をとることで有名な大学教授たちが、こんな基本さえ出来ないのに企業研修をやっていることをいまだにやっていることに驚いた。他の参加者が「あの講師はあの人ばっかり褒めて・・・」という感情を持ってしまうことは大人になってもおこる。私のセッションは参加された方はおわかりだが、いろんなジャンルのお題を出し続けるので、コンスタントに正解している参加者がいれば、こちらは褒めざるを得ない。というよりも、私は「素」でやっているので、率直に感心したことを皆に伝えているだけのことだ。

そんな時に、他の優れた、あるいはオープンマインドで学び続けている参加者に対して、ジェラシーのオーラを出す参加者の存在が目立つようになってきた。幸い、まだ全体の少数派であるけれども。

敢えて言おう。何とも脆弱な、そして傷つきやすいわりには、変なプライドがある。自己愛だけはあるけども、他者を認められない、受け入れられない、そして自分の責務を果たさない、そんな人が目立ってきたのではないだろうか?ある人事の方が「企業研修は彼らが受講費を払っていないんだから、そんなことに拘っていないで、船川さんのセッションに飛び込んでほしいです。」と言った人がいた。これもありがたいコメントではあるが、人間の抱えるルサンチマンは根深い課題であることは考えたいのだ。

そして、そんな参加者が顕在化してきた一つの理由は、私のセッション中に受講生が受ける知的負荷が高くなってきているのは自覚している。無論、「胡散臭い外部コンサルタント」というレッテルを凌駕するだけの人徳が私にないのは十分承知の上だ。

腫物にさわるような状況で、人の育成はできるだろうか? 厳しいお客のクレームに逆ギレするような社員を組織の中に抱えていけるのだろうか? そして不祥事が明るみになってから、「型通りの記者会見」をやっている経営トップが目立つのはなぜか?

そう、我々の中にも疑心暗鬼はある。ただし、なんとしても、「高度疑心暗鬼社会」からの脱却はしていきたい。この連載が終了しても、それだけは伝えていきたい。(次回に続く)