第113回 栗原 類さんの冷静な自己観照力と「日本の病理」

「今回、生放送なのでカットとかされないので、これだけは是非お伝えしたいのですが、僕は今まで一度も『ネガティブ』と言ったことはないです!」

平日の昼間、テレビを見る機会というのはほとんどないが、先日仕事をしながら見ていたテレビ画面の登場人物のこのことばが目をひいた。

登場したのは、栗原類さん、番組はNHK総合「スタジオパークからこんにちは」、NHKの番組紹介を兼ねて、ゲストをスタジオに招いて進行していくというもの。私はこの日まで知らなかったが、ファッションモデルとして活躍し、映画、ドラマといろいろな場で登場している。Googleで検索してみたら、2,210,000件というヒット数になった。

独特の雰囲気を醸し出している栗原さんの外見以上に、番組冒頭で彼が言ったことばに強い意志とメッセージを感じた。そして、その後の番組進行の中で、ホスト側と彼とのやりとりを見ていて、これまでのべてきた「言語と思考、そして感性の堕落論」にもつながる大きな課題を再確認することができた。

一言で言えば、既存のステレオタイプの枠の中から出てくる陳腐な質問に対する栗原さんの冷静に自らを見つめ続けている姿勢だ。

終始落ち着いて、ことばを選びながら語る栗原さんは、確かに「ハイテンション」ではない。しかし、決して「やる気のないネガティブな青年」はない。例えば、こんなやりとりがあった。

中学生の時からモデルとしてデビューしているので、「相当もてたんじゃないですか」というホスト側からの質問を否定する栗原さんに「今のようにネガティブな発言をするので、『ネガティブなイケメンモデル』と呼ばれるようになった」というホスト側の紹介。確かに、テレビは「わかりやすい」台本が必要なのかもしれない。

多くの日本人は理解できないことであるが、栗原さんのような「ハーフ」の子供たちの中には、周囲からジロジロ見られていることにはうんざりしている人もいるということだ。そして、「おまえは日本人じゃない」という多文化社会の理解もセンシティビティもない質問にさらされて育っている。そんなことを少しでも想像してみるだけで、栗原さんの発言の意味が少しは理解できるのではないだろうか。人を属性ではなく、「個」として見ていくことがダイバーシティが進む社会では必須だ。

自己肥大した有名人や「目立ちたがり屋」ばかり跋扈する時代の中で、「目立つことは好きではない」、「浮かれるとバチがあたる」という栗原さんは新鮮に映った。

自分の物差しからはみ出た「突出した異才」や自分の視野の外で「異彩を放つ人物」をラベリングすることで満足したがる。その一方で、肩書や権威には委細構わず平伏してしまう。そんなことだから、自らを「偉才」とか「天才」と呼ぶ勘違いする輩が出没し続ける。

つまり、我々は1人1人の人間をありまま受け止めることにあまりにも怠惰になってしまったのでは、と見ている。この「日本の病理」については次回述べたい。