第110回 言語変換機能の衰退 言語と思考、そして感性の堕落論2

前回、「言語と思考、そして感性の堕落論」の一回目、「『ホントですか?』って本当ですか?」の最後に、コミュニケーション不全の問題の根底には、根深く、そして重層的な原因があると述べた。「若者コトバ」の問題でも、「ゆとり教育」の問題でもない。では、なにかということで、今回は言語特性の課題をとりあげよう。

「グローバルビジネスに関与する我々はウクライナや中東の問題に無関心でいられるわけにはいきません。つまり、チセイガクも重要です」

「ことばは業界によって連想することば違う場合があります。『チケン』と言えば製薬会社の方はすぐに臨床試験のことが浮かびますが、別の業界の方はピンとこないことがあります。中には、『特捜チケン』のチケンを思い浮かべる人もいます。あるいは、「チケンシャをまとめるのが仕事です」と言う人もいるでしょう」

最近、私はこんなこともセッションの中で参加者に共有している。そして、小さいポストイットに「チセイガク」や「チケンシャ」を書いてもらうことがある。年齢を問わず、そしてどこの企業でも、正しく漢字が書ける人の比率は予想以上に低い。昨年まで指導していたあるMBAのクラスでも正解を書ける人は4割にも満たない。「チセイガク」で言えば、「地勢学」「地性学」と珍妙な漢字を書く人が絶えない。皮肉にも「チセイガク」では「知性学」、「チケンシャ」では「知見者」がよく出没する。「チセイガク」については、通常、私は尋ねると同時に「ジオポリティックス(geo-politics)な見方」とヒントを出しているにもかかわらず、geo=地、politics=政治と、アタマの中でつながらない人は少なくない。

もちろん、こうした事例は山ほどある。例えば、昨今、世間を騒がせた論文の疑惑話に出てきた「サドク」を漢字で求めてみると、「修士論文」「博士論文」を書いた人はさすがに書けるのが大半であるが、それ以外の大多数の方は書けないのが実態だ。それは、「査読」という漢字を知らない、という問題ではなく、話の脈絡から、「精査」、「調査」の「査」が連想できず、ことばの変換が出来ていないということを私は危惧している。

ことばに対する感覚の低下、それは思考力の低下を意味するし、コミュニケーション不全を引き起こしてしまうのは、当然の帰結だ。ではなぜ、基本的な漢字の変換機能が出来なくなってしまったのだろうか。一つには言語特性の課題がある。

日本語は高コンテクスト、英語や独語、フィンランド語を除く北欧言語は低コンテクスト、ということは聞いたことがある読者は多いだろう。17年前に米国で出版した最初の拙著、Transcultural Managementの中で紹介して以来、他の本でも紹介してきた。コンテクストとは脈絡、雰囲気、関係などを意味する。コミュニケーションをとるときにコンテクストへの依存が強い言語を高コンテクスト言語という。エドワード T ホールに1976年に紹介したこのモデルは、異文化コミュニケーションの分野では良く知られているが、1964年のバジル・バーンスタインが発表した制限コードと精密コードの概念にも共通点を見ることができる。

制限コードは、お互いの暗黙の了解が共有されている状況で通じる言語コードであり、その前提が共有されていない場合はコミュニケーションが文字通り制限される。一方、精密コードとは、話し手は、聞き手はそうした前提に頼らずとも理解できるように伝える言語コードであり、聞き手の「行間を読む」余地を少なくした話し方となる。精密コードは英語ではelaborated codeといい、elaborateとは「明確に言う」「補足しながら説明する」という意味もあり、「Could you elaborate that?」と尋ねられた場合は、話者はおっくうがらずに説明しなければならない。そして、この表現は英語圏ではよく出るフレーズだ。同様に、話し手も、「Let me elaborate.」と断りながら、聞き手の誤解がないようにするのはファシリテーターでなくても行うことだ。

つまり、高コンテクストにして、制限コードでもある日本語のコミュニケーションが今成り立たなくなってきているのではないだろうか、ということに私は危惧している。ことばにしなくてもいい「暗黙の前提」は社会の多様化が進めば、同じ日本語環境でも共有されにくくなる。よって、「行間を読む」高コンテクストの会話は難しくなる。

それにも拘わらず、自分が発することばに対して、相手が理解するのか、否かというコミュニケーションの基本的なことについてあまりにも無頓着になってしまったのではないだろうかと考えている。

身内での「ホウレンソウ」は出来ていても、外国人は言うに及ばず派遣社員や、他部署から移ってきた新メンバーと明確な「報告・連絡・相談」を促せることが出来る管理職者は意外と少ない。相手が「分かって当然」というスタンスで話し続ける上司と、「分からないけれども、まあいいや」と聞き流している部下の間では、コミュニケーション不全は当然だ。

要するに、お互いに確認をしなくとも成立すると思ったコミュニケーションが実は成立していない、そのことに気づくべきだ。そうして、初めてコミュニケーションをとる工夫がなされる。

ところで、耳で聞いたことばを「漢字」で変換できていないだけではない。外来語と英語の略語の意味を考えないで使っているという課題もある。これについては、次回、日本語の言語特性に加えて、歴史を遡って問題提起をしたい。