第106回 想定外対応不能社会からの脱却

「アタマの生活習慣病」というテーマを本に書いたのは2004年。思考停止の原因を私なりに整理したものだ。 思考停止の原因として二つに大別できる。 自ら考えることを放棄してしまう「思考放棄」と自分で考えずに安直に権威に依存する、あるいは集団に依存してしまう「思考依存」と名付けた。「生活習慣病」はかつて「成人病」と呼ばれていたが、それではあたかも年齢の問題のように響く。年齢の問題ではなく、生活習慣の問題であるという聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生の著作をヒントにこの本を書いた。

あれから10年たった今、もっと深刻な問題に気づいた。それは、「想定外対応不能社会」になってきてしまったことだ。三年前の東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故への対応を見れば明らかだ。それは「想定外」の出来事に対応できないと言う現象だけの問題ではない。「想定外」と言えば対応不能でも仕方がない、出来ないのは当然だ、と当事者能力を放棄し、思考停止を正当化してしまう、その結果ますます対応不能のまま放置されデススパイラルに入っていく、そして、メディアもそれを許してしまう空気をつくる社会の病理のことである。

いまだに、汚染水の問題だけではなく、廃炉までの課題を抱える福島第一原子力発電所の課題は想定外対応不能社会の象徴である。何度か、私のフェースブックでアップしたが、野党時代に、民主党に対して「原発の事故収束宣言はおかしい!」と追及していた現首相は、事故収束宣言の撤回をするはず、と思いきやその方向には進まない。2020年の東京オリンピック招致のスピーチでは、「東京は大丈夫です!」と声高に叫んでいたが、福島の人達がどういう気持ちで聞くのか、全く配慮に欠けた発言である。

「想定外対応不能社会」は政治家や不祥事に頭を下げる経営者だけの問題でもない。マニュアルには載っていないことに対応できない店員、「就活対策本」に書かれていない採用者からの質問に絶句してしまう学生、経験則の効かない問題にあわてふためく管理職者、とその事例を探すのに苦労はいらない。それほど、「想定外対応不能社会」の課題は根深い。

私が気になるのは、こうした状況を結果的に後押ししてしまうような弁護団的な発言だ。例えば、「誰が責任者を務めていても、リーダーをやっていても無理だろう」という説明だ。たしかに、それなりの説得力があるが、同時にこれも思考停止の罠でもある。もちろん、自然災害の前では我々はあまりにも無力であることは百も承知だ。

実際にあった想定外で尚且つ、危機的な宇宙船の事故を扱った映画の名作品「アポロ13号」を見た方は覚えているだろう。NASAのコントロールセンターで最後まで諦めずにチームの力を指揮したフライト・ディレクター、エド・ハリスが演じたユウジーン・F・クランツ氏は、想定外を決して言い訳にはしなかった。1993年、当時、NASAの案件にも関与していたのでクランツ氏にNASAで実際にお会いする機会があった。NASAのスタッフが異口同音に彼のリーダーシップをたたえていたのは印象的であった。

3・11の時、想定外を言い訳にしなかった人達も我々は見てきたはずだ。彼等もクランツ氏と同様、「想定外」を言い訳にはしなかった。「想定外対応不能社会」を変えていくのは一人ひとりが言い訳をやめ、行動をとることが突破口だ。そんな行動をとれる人が一人でも増えていくように、私なりにやれることを今後もやっていきたい。