第104回 映画「永遠のゼロ」最後の0.7秒に「ハンナ・アーレント」の世界を見た! ―我々が学び続け、対話を繰り返さなければならない理由―
小説がドラマや映画になった時、評価が分かれることがある。「やはり、小説が良かった」という声を聴くことが多いのも事実だ。 一方で、このMLで何度も紹介してきた「ハゲタカ」と「るろうに剣心」は数少ない「小説も良かったし、ドラマ、そして映画も良かった」という例だ。もっとも、ハードコア「ハゲタカファン」は「映画よりも、ドラマの方が圧倒的に良かった」とさらなる批評も出てくるだろう。
それはさておき、もう一つは、「映画の方が小説より秀逸である」という作品群がある。今、話題になっている「永遠のゼロ」は私はそう判断した。理由は映画の最後、0.7秒にある。そして、この原稿の最後まで読んで頂くとその理由がある。従って、最後まで読んで頂きたい。
まず、百田直樹氏の小説、「永遠の0」の説明はそれほどいらないだろう。2009年の発売以来、今現在までに350万部の大ヒットとなり、今世紀史上最大の売上部数を誇る、伝説の文庫となったとのことだ。
その映画版となれば、ということで私は映画を見た。小説を読んだのは映画を見た後だ。そして、このメルマガ原稿を書くことにした。一人でも多くの人に共有したいこと、そして考えてもらいたいことが山ほどあり、長い。(19000字を超える)よって、今回のメルマガは下記の通り目次をつけた。
・学校教育「『大化の改新』の陰謀」を超えて
・「洗脳」と言うよりも「世論操作」と「国威昂揚」の構造
・まだ知られていない太平洋戦争の実態、その一部
・映画「ハンナ・アーレント」に見る「冷静な思考」
・「思考を深化する」必要性
・Ethnocentrism 「自民族中心主義」を超えて
では、早速はじめよう。
・学校教育「『大化の改新』の陰謀」を超えて
小説「永遠の0」の百田氏と私は同年、昭和31年生まれだ。この年、つまり1956年に発表された経済白書の結びのことば「もはや、戦後ではない」は有名だが、今から、振り返ると、「終戦後、たった11年」という感覚だ。私が幼稚園に入った頃、1960年初頭でも、渋谷駅にも傷痍(しょうい)軍人が軍服姿でアコーディオンをひいていた。その光景は今でも鮮烈に覚えている。戦争の影はまだ十分残っていた頃だ。
ここで、私の家族の戦争原体験を共有しておく。私の父、船川金治は大正12年7月生まれ、関東大震災が起きたのがこの年の9月1日だ。父の家系は秋田出身で、父も秋田にいたので、震災は免れている。 そんな父が東京に出てきて明治大学入学後、「学徒出陣」(「学徒動員」ともいう)でかり出された。テレビで紹介される昭和のドキュメンタリーの定番ともいうべきもので「神宮外苑競技場での出陣学徒壮行会」は見たことがある方は多いだろう。雨の降る中、当時の首相、東条英機の前で鳴り響く陸軍分列行進曲(またの名を扶桑歌とも言われる。正確には「扶桑歌行進曲」と「抜刀隊」の二曲を編集したようだ)に合わせて、文字通り隊列行進を行っていた学徒の一人だった。戦局の悪化する1943年(昭和18年)10月21日がこの出陣学徒壮行会の第一回であり、同じ10月21日、朝鮮の京城でも行われていたと知ったのは最近のことだ。その後、大阪、仙台、神戸、名古屋など国内だけではなく、ハルピン、上海でも行われ日本軍の占領地で台湾人、朝鮮人、満州国の学生も動員された。
この壮行会の時に秋田から神宮競技場で行進する多くの学生の中に父の姿を目で追いながら涙したというのは、金治の母、船川シゲ、つまり「シゲお祖母ちゃん」から直接何度も聞いていた。一方、金治の父、秋田市内、土崎港で呉服商人だった船川三治は「なんとしても、長男の金治(父には弟二人、妹三人がいた)を内地に残したい。戦争にとられた上に、外地に行ってしまったら、確実に死ぬ。それだけはなんとしても避けなくてはならぬ!」と家にある骨董品を全て父、金治が配属された仙台にある陸軍部隊に貢いだ。従って、陸軍少尉船川金治はその父の「ねばり」によってフィリピン、硫黄島、サイパンなどの外地に行くことを免れた。
それでも、通称「新司偵」(100式司令部偵察機)に搭乗していた父は終戦直後、離陸寸前のところをグラマンF6Fヘルキャットの機銃掃射をあび、新司偵は大破。幸い空中に機体が浮く直前だったので地面に投げ出された父は重症の火傷を負うが、助かった。そうでなければ、言うまでもなく私はこの世に存在していない。
父は今から22年前に亡くなっているので、もっと戦争中のことを詳細に知りたいところだが、それ以上のことはわからない。私が小学生か中学の頃、プラモデルで100式司令部偵察機や馬力だけではなく圧倒的な運動性能を持つP51ムスタングや山本五十六を撃墜したとして有名になった「双胴の悪魔」P38ライトニング、あるいは一発敵の攻撃を喰らうと搭乗員が助からないという脆弱な防御で有名な一式陸攻撃などを組み立てていた時は、父は戦争体験を語ってくれた。
父の死後も母や叔母、そして叔父たちもそれぞれの体験を語ってくれた。シゲお祖母ちゃんが私の母に何度も語っていたのは、仙台の連隊に彼女の息子、金治に会いに行ったときのエピソードだ。自分の母親が慰問に来てくれてうれしかったのか、それとも私同様、そそかっしい父だからか、わらかない。母の姿を見た父は上官の前での敬礼をうっかり忘れた。その上官は父をスリッパで殴りつけた。父が片側の鼓膜を失ったのはその時だった。
もう一つ、父の妹であり私の叔母から聞いた話だ。 実はこの叔母から私は子供のころ、ピアノを教わっていた時期もあり、またこの叔母の子供二人、つまり従妹と会う機会もあるので、叔母の話を聞く機会がある。但し、この話は東日本大震災の直後、つまり、つい最近聞いたエピソードだ。
当時、「赤紙」つまり、徴収礼状が届くと近隣の人からは「おめでとうございます!」と言われ、そして出征する直前にはそうした人も招いて宴会を行う。宴会がまだ続くなか、秋田の土崎港の家の外に父は外に出て、星空を見上げていた。私の叔母も脇にいた。6人兄妹の上の二人だけが戸外にいた。そして、普段、一切弱音を吐かない父が叔母につぶやいた。「美代子(叔母の名前)・・・俺はこわい・・・」と心境を当時20歳ごろの妹にだけ吐露した。他の兄妹は若すぎるので、長女の美代子叔母には告げたのだった。
身内の話が長くなって申し訳ないが、「永遠の0」に出てくる時代背景とそのディティールを共有しておきたい。「永遠の0」の小説、映画ともに出てくるセリフでもうすぐ戦後70年を迎える。戦争の原体験を持つ方が減ってきているだけではなく、そうした原体験を周りに持つ人もまた少なくなっている。
そして、このあたりまでくれば、私が映画「永遠の0」を見ながら、親父や祖父母に想いを馳せながら、感情移入していたのはご理解いただけるだろう。そして、それは「永遠の0」だけではなく、クリント・イーストウッドの2部作「硫黄島からの手紙」、「父親たちの星条旗」、BC級戦犯を扱った名作「私は貝になりたり」、故藤田まことが名演技をした「明日への遺言」などの映画をみるたびに、戦争の悲惨さと理不尽さを毎回考えさせられてきた。
但し、戦争を知らない我々が注意すべきは感情移入するだけではなく、敢えて、それをより大局的に、そして深く人間の行動について考えるという作業が必要だ。そうでなければ、建設的なレッスンを学ぶことが出来ない。
そして、我々が注意すべきは一部、特定個別の「私の戦争体験」を通じて、「あの時代は●●だったから■■が正しい」と語ってしまうことが、いかに「不当な一般化」の罠に陥りやすいか、ということだ。従って、私の身内の話も当時を生きた一人の人間のエピソードにすぎない。ただ、そのエピソードを明確にシェアしておかないと「『大化の改新』の陰謀」と「耳障りはいいけれど妥当性を検証されていない意見に飛びついて溜飲を下げたい症候群」がつくる負の連鎖があるからだ。
それぞれがなにを意味するのか、その説明の前に、母の話をさせてほしい。
母の家系は高知県出身だ。大正15年に東京で生まれた母だが、叔父叔母、そして祖父母同様、土佐弁も話していた。女学校を出て一旦、朝日生命に就職をし、挺身隊として東京、中島飛行機武蔵野製作所の工場に出向く前までは、当時、皇居前にあった同社の本社ビルに勤務していた。母は2009年に脳梗塞で倒れ、その前から進行していたアルツハイマーの影響もあって、今は、私の認識はできるけれども、通常の会話はできない。介護レベル5の状況が続いている。
幸い、脳梗塞で倒れる数年前、母と一緒に先に挙げた戦争関連映画を良く見て、話を聞いていた。母だけではなく、母方の叔父や昨年亡くなった母の姉である叔母も「負けるとわかっていたのに、上の人はなんで戦争を始めちゃったんだろうね?」「新聞もラジオも無責任に大本営発をながして、ひどかったもんだ」などと兄妹同士で集まると、よく語っていた。それは決して、最近言われるアメリカの「洗脳教育」や「自虐史教育」とは関係なく、同時代を生き抜いた一人の人間として率直な実感としての発言だ。
人の悪口は一切言わなかった母が2007年ごろ、ある本の次の箇所をみて嘆いた。「なにを言ってるんでしょう。この人は全く・・・呆れた」。次の箇所だ。長くなるが、誤解をさけるために紹介する。
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ところで、戦時中はだれもがつらく惨めな生活のみに明け暮れていたかのようにいい、「ニ度と戦争はイヤだ」とあっさり結論づける人がいるが、戦争はそんな単純なものではなく、人間もそれほど平板な存在ではない。
国家が方針を打ち出し、それを正義のための聖域だと説得されて、かつて日本人の大半は世界の安定のために邁進していると一途に信じこんでいた。そりゃないでしょうとは六十年目にいえることで、国中が一体化してひたむきだったことは先にあげたマスコミの記事によっても明らかだ。食うか食われるかの緊張感のもとに、前だけをみつめて前進していた小学生のころの迷いのない日々が、私にはいまでも一種の爽快感をともなって思い出されることがある。
まず、胸に浮かびあがってくるのは歌だ。当時、子供は小国民と呼ばれていたが「小国民愛国歌」の三番は、
世界平和の決勝点 見えた頑張れ もうすぐだ
われらは日本少国民 われらは日本少国民 駆けよ 駆け駆け 真っ先駆けて
愛国競争 それ駆けよ
目の前に世界平和が見えてきたといわれれば、迷ってなどいられようか。
子供だけではなく、家族全員が歌ったのが「父よあなたは強かった」である。
一番が、父よあなたは強くかった 泥水すすり草を噛み(中略)よくこそ(敵を)撃って下さったで、
二番は、夫よあなたは強かった、骨まで凍る酷寒を(中略)十日も喰べずに いたとやら よくこそ勝って下さったで、
三番は、兄よ弟よありがとう、
四番は、友よわが子よありがとう、と世界平和のために活躍する身辺の男たちの活躍を片っ端から褒めたたえ、
あの日の戦に散った子も 今日は九段(靖国)の桜花
よくこそ咲いて下さった
とくれば、子供としては雰囲気につられずにいられない。
さらに、私と同世代なら誰もが口ずさんだのは次のような歌詞である。
太郎よ お前は良い子供 丈夫で大きく強くなれ
お前が大きくなるころは 日本も大きくなっている
お前は私を越えて行け
大人になったら満州も朝鮮半島も台湾も、おまけに本来の北方領土までがなくなって、日本が小さくなっていようとは夢にも思わず、私たちは声を嗄らして歌ったものだ。歌いまくっておなかが空いたころ、
欲しがりません、勝つまでは
という標語が周囲に貼りめぐらしてある。耐乏もまた楽しであった。
国中が一丸となって突撃していた時代の一種の危険をはらんだ快感が、戦争という二文字の裏側にあるのはたしかで、いわずもがなこの一節をあえて書き添えたのは「ニ度と肝心なところで爪の垢ほどもウソが、あってはならない。
少なくとも私は爽快感や躍動感を含めて戦中と戦後を生きてきており、戦争の馬鹿馬鹿しさに気づくのに半世紀かかった。
戦争を知らないひとのための靖国問題 上坂冬子
文芸新書 2006年
**********引用終了**********
母は、故上坂氏の文章を読んで憤り、嘆いた。「なんでこの人はウソなんていうの?どうして爽快感があったなんて。」暫く、この本を見ていた母は「あー、なんだこの人疎開していたんじゃない。」と言っていた。つまり、朝日生命に勤めていた頃に、最初の東京での空襲警報と爆弾投下(不発弾)を皇居前で見て(昭和16年ごろ)、挺身隊として先の中島飛行機の工場で働いていた時にグラマンの機銃掃射によって、腰がぬけながらもはいずりながら退避し(昭和19年もしくは20年)、そして何よりも昭和20年、5月25日、杉並区和田本町に家族6人が寄せ合うように暮らしていたアパートが東京空襲で焼失した経験を持つ母だからこそ言えることだと思う。 母よりも6歳若く、長野高女の1年生として、自分の鉢巻姿を載せた上坂さんの本には嫌悪感を持ったのだろう。
私がここで上坂さんの話を取り上げるのは既に亡くなっている方のバッシングではない。まさに、上坂さんの書かれたとおり、単純に「戦争反対!」を連呼するだけの人に対しては、私も、「戦争はそんな単純なものではなく、人間もそれほど平板な存在ではない。」ということでは、同感だ。ある意味で、上坂さんは人間がいかに簡単に操作されてしまうのか、そのプロセスを正直に述べている。
残念なのは、その上坂さんが亡くなる前に、「中国に、やいのやいの言われる筋合いはない」という発言をメディアで喧伝していたことだ。これも、まさにご本人が書かれたように、戦争を知らない世代をミスリードすることになる。シンガポールやマレーシアの歴史博物館に行ったり、フィリピン人と少し話してみれば、「文句を言っているのは中国と韓国だけ」というのは狭隘なものの見方であることはわかる。
第一、戦争を知らないのは「若い世代」だけではない。私が年間100回近くやっているワークショップでPPQ(ポストイットポップクイズ、その場でお題をだし、書いてもらうという手法で知識のみならず、思考速度、そしていろいろなことに対して知的アンテナをどのぐらいたてているか、自己認識を持ってもらう手法。一回のセッションで100ぐらいの分野の異なるお題を出している)で、「第二次大戦、太平洋戦争で亡くなった日本人の数は?」とか、「ホロコーストの犠牲者?」、「連合軍が空爆をしたドイツの美しい都市は?」というお題を出すことがある。受講者は30代から50代。MBAホルダーや、大学院を出た修士、博士も珍しくない。クライアント企業は日本を代表する国内大手企業と世界でよく知られた外資系企業日本支社だ。
参加者一人一人がごまかすことなく書いた結果、「大戦での日本人犠牲者」は5000人と答えた人から5000万人と答える人まで様々だ。(サンプルは800名程度)読者の皆さんは「そんなわけがない!」と思われるだろう。さすがに、5000人と答えたのは珍しいが、2割から3割程度の人は100万にまで届かない数字を書いている。1割近くの方は10万人に至らぬ数字を書いている。つまり、広島、長崎の犠牲者や、東京空襲の話もあまり聞いていないのだろう。200万人代を書ける人はやはり2割程度。そして正解の311万人を書ける(念のため310万人でも結構と言っている)方は全体の1割弱という状況だ。「それって、もしかして参加者は理系が多いんですか?」などという「理系と文系のバカの壁」という俗説に惑わされやすい人に言っておこう。関係ない。
答えを書ける方の特徴は、興味がある、家族や知人から語り継がれている人、そしてこのあたりも含めてきちんと教育している(残念ながら数少ない)学校卒業した人というのが現実だ。ある参加者は彼女の祖父の話をしてくれた。海軍学校で優秀な成績を収め、部下も多いそのお祖父さんにあたる方は部下がいかないことを願って自ら特攻を志願した。ところが、人望のあるその方が志願したため、部下の多くがその後志願をしてしまった、という。そのお祖父さんは幸いご自分が助かったにもかかわらず、ずっと悔いていたそうだ。
身近にこうした「語れる人」がいないと、知らないのは当然なのかもしれない。つまり、戦争についてあまりにも知識を持ち合わせていない人が圧倒的に多い。あるいは、250万人ぐらいだったとお互いにポストイットを見せた後で語る参加も多少いるが、彼等は頭のレファランスメモリーから引っ張り出して、ポストイットに書けるところまでにはいっていない。その理由は、やはり普段考えていない、語ることがない、つまりレファランスメモリーからリトリーブしたことがない記憶情報は、「うろ覚え」程度で終わってしまうということだ。
この原因にあるとみているのが学校教育の「『大化の改新』の陰謀」と見ている。この名付け親はJMAが2004年から2007年まで行っていたGBL (グローバルビジネスリーダー育成プログラムで知り合うことができた武市純雄さんだ。世界銀行グループの国際金融公社局長も務めていて、GBLのメンター役であった。私の著書でも何度か紹介している。
「『大化の改新』の陰謀」とは意図的に教えてないのでは?と思えるような日本史の授業の進め方だ。つまり、縄文・弥生時代から「大化の改新」まではゆっくり時間をかけ、一学期を終える。二学期に、平安時代、そしてなんとか江戸時代まで。学生が気もそぞろの三学期には、明治維新と戦後まで、と一気につめこむ。そんな状況では、近代史に理解を求めるのは不可能と言えよう。近代史をきちんと教えていないツケは大きい。
また、統一試験、センター試験制度と大学受験制度がかわるたびに、要領のいい学生は日本史も世界史も早くみきりをつけて、全く学ばずに地理で大学受験したりする。理系に進学すると、その比率は確かに増えるようだ。
要するに、圧倒的に歴史のインプットが足らないことは認識すべきだろう。その状態では、「耳障りはいいけれど妥当性を検証されていない意見に飛びついて溜飲を下げたい症候群」にいとも簡単になってしまう。
例えば、「南京虐殺はなかった」と一部の識者と言われる人も言っているが、私のビジネススクールで知り合った中国人の方は、実際に「祖父母が殺された」と語っていた。1990年のことで、これはいわゆる「胡錦濤政権による反日教育」のはるか前のことだ。同じく、在日韓国人の友人が、その時にたんたんと「半島とは違う(残忍な)殺され方をしましたからね。まあうちの親戚も殺されましたけれど・・」と語っていた。
もちろん、だからと言って、当時の南京の人口を上回る「30万人の虐殺」があったとは私も懐疑的にならざるを得ない。しかし、それは全否定の材料にはならない。極論の言い合いをしていては、対話にならない。
・「洗脳」と言うよりも「世論操作」と「国威昂揚」の構造
さて、上坂さんの書かれた文章を引用したのは、「世論操作」と「国威昂揚」の構造がよく見てとれるという理由もある。そして、小説、映画とも「永遠の0」だけではなく、多くのすぐれた文芸作品はそれを見せている。
ちなみに、映画「永遠の0」の中で、「特攻隊は洗脳されていたんだ」と友人に言われて現代を生きる主人公が激怒する場面がある。たしかに、今言われる「洗脳」ということばには軽い響きがある。当時の時代背景を考え、政治、文化、社会と重層的な「国威昂揚」のしかけがあったことは認識すべきだ。上坂さんが軍歌を歌って昂揚感を味わったのはもっとものことだ。
軍歌や行進曲で思い出したことがある。それは作曲家、千住明さんのことばだ。音楽は人を操ってしまう力もある。従って、作曲する者はそれを覚悟の上で作曲しなければならない、という趣旨だった。まさに名言である。
たしかに、先に学徒出陣で紹介した「陸軍分列行進曲」や有名な「軍艦マーチ」という行進曲だけではなく「同期の桜」や「若鷲の歌」など鼓舞する力を持っている。もちろん、海外の軍歌も一様に気持ちを奮い立たすように作られている。You-tubeでこのあたりは全て聞けるので、知らない方は是非、体験してほしい。
音楽に加えて、同調行動と「集団思考の罠」が待ち受けている。気をつけなければ「衆愚」を呼んでしまう。この問題についての考察で是非、知っておきたい衆愚のしかけが下記の文章だ。
**********以下引用**********
衆愚を呼ぶふたつの動き
しかし、衆愚がとりうるさまざまな形式の裏には、少なくともふたつの根本的なパターンがある。その存在に気づけるならば、愚行が生じる危険性を察知できるであろう。
第一のパターンは、分断と細分化の動きだ。このパターンにおいては、集団の構成員が、「身内ではない」「私には関係がない」とみなす発想、集団内の他の構成員、または他の集団に抵抗を示す。この抵抗の引力は明確な形をとるとは限らない。たとえば調和しない視点やデータを無視し、自分が知る内容、知っているとは思っている内容を肯定するデータや視点だけ受け入れる。認知科学ではこの行動を「確証バイアス」と呼ぶ。既存の先入観を裏付ける形で情報を求め、解釈しようとする傾向のことだ。自分が知るものとは違うものは、すべて「身内ではない」ものであり、意識的にまた無意識的に排除される。
あるいは、分断と細分化に向かう引力が強まり、人を「極性化」に引き込むこともある。強まった力が愚行に向かい、そこで足をとられたとき、人は自分の信じるものと異なる考えや人間のことを、「他者」と断じる。相違する概念の理解と融和を試みるかわりに、拒絶し、「異端」であるとか「危険」であると断じる。意見を異にする相手との関係や信頼構築を図るかわりに、「目が曇っている」、「利己的である」、「悪魔的である」と呼ぶ。もっとも極端な場合には、他者を非人間的だと言い切ったり、暴力を含めたいかなる排除も善しとされる「身内への脅威」だと表明したりする。不明確であろうと極端であろうと同じだ。分断と細分化は、知の深い結びつきと、視野を広げた理解から人を遠ざける。
第二のパターンは、いわば第一のパターンとコインの表裏をなす。分断と細分化へ向かうのではなく、いつわりの合意、見せかけの団結に向かおうとする。このパターンにおいて、集団の構成員は沈黙と服従を選ぶ。集団内の不一致を明らかにするよりも、団結の幻想を守りたいと考える。すでに存在する分断を覆い隠し、その結果として、直面する現実の正確な理解に結びつくデータや視点の検討を避ける。第一のパターンと同じく、深い連帯や広い理解から遠ざかるが、この場合では、既存の分断と細分化がいつわりの合意という形でおぞましくも保存される。このふたつの動き、一方では分断と細分化に向かい、他方ではいつわりの統一に向かう動きは、衆愚の体験として幾度となく繰り返されている。
**********引用終了**********
以上「集合知の力、衆愚の罠」より
アラン・ブリスキン/シェリル・エリクソン
ジョン・オット/トム・キャラナン
上原裕美子(訳)
英治出版 2010年
お互いのラべリング、極論の言い合いというパターンだ。これを読むと、今国内で起きている原発の議論も同じパターンになっていることに気づかされる。
また、為政者達が、自らの失政を隠すために、外敵を使ってごまかしたり、国威昂揚にあおり、やがて戦争にいたるという事例には枚挙にいとまがない。だからこそ、我々は冷静に考えなければならない。
・まだ知られていない太平洋戦争の実態、その一部
まさに、「失敗の本質」について考えなければならない。「永遠の0」によって、戦争の事をもっと知りたい日本人が増えてくるのはいいことだと思う。興味を持たれた方は、いろいろな本を読むといい。その中で、自らもフィリピンで生死を彷徨い、そして捕虜になった経験を持ち、亡くなる前までは論壇で活躍されていた故山本七平氏の著作をおすすめしたい。特に下記は括目して読んでいただきたい。トヨタの奥田前会長がトヨタ幹部に「是非よむように」とすすめた本として一時期主要書店で平積みになっていたので、読んだ方も多いだろう。
**********引用開始**********
日本の敗因、それは初めから無理な闘いをしたからだといえばそれにつきるが、それでもそのうちに含まれる諸要素を分析してみようと思う
一、精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然(しか)るに作戦その他で兵に要求されることは、総(すべ)て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた。
ニ、物量、物資、資源、総てに米国に比べ問題にならなかった。
三、日本の不合理性、米国の合理性
四、将兵の素質低下(精兵は満州、支那(しな)事変と諸戦で大部分は死んでしまった)
五、精神的に弱かった(一枚看板の大和魂も戦い不利となるさっぱり威力なし)
六、日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する
七、基礎化学の研究をしなかった事
八、電波兵器の劣等(物理学貧弱)
九、克己心の欠如
十〇、反省力なき事
十一、個人としての修養をしていない事
十二、陸海軍の不協力
十三、一人よがりで同情心がないこと
十四、兵器の劣悪を自覚し、負け癖がついた事
十五、バアーシー海峡の損害と、戦意喪失
十六、思想的に徹底したものがなかった事
十七、国民が闘いに厭(あ)きていた
十八、日本文化の確立なき為
十九、日本は人命を粗末に、米国は大事にした
ニ〇、日本文化に普遍性なき為
二一、指導者に生物学的常識がなかった事
順不同で重複している点もあるが、日本人には大東亜を治める力も文化もなかった事に結論する。
**********引用終了(P35-36)**********
ここで、補足しておこう。一五番のバァーシー海峡は、バシー海峡だ。台湾とフィリピンのルソン島の間にある海峡である。山本七平氏のこの本で紹介されるまで、殆ど知られることもなかった。いわば封印されてしまった事例だ。今なお200艘以上の輸送船、軍艦にとともに海底に眠る日本兵は25万人以上と言われている。少なくても、下記の箇所でその悲惨さが理解できよう。
**********引用開始**********
すべての人間は思考力を失っていた。否、それは、思考を停止しなければ、できない作戦であった。人が、まるでコンベアに乗せられた荷物のように、順次に切れ目なく船艙に積み込まれ押込まれてぎっしりと並べられていく。そうやって積み込んだ船に魚雷が一発あたれば、いまそこにいる全員が十五秒で死んでしまう―。この悲劇は、架空の物語でなく現実に大規模に続行され、最後の最後まで、ということは日本の船舶が実質的にゼロになれるまで機械的につづけられ、ゼロになってはじめて終わったのであった。
そしてこの「押込み牢」は、その計算の基礎は『私の中の日本軍』で記したから再説しないが、ナチの収容所の中で最悪といわれたラヴェンスブリュック収容所の中の、そのまた最悪と言われた狂人房のスペースと同じなのである。おそらくこれは、これ以上つめこんだら人間が死んでしまう、ぎりぎりの限界である。
アウシュヴィッツの写真を見る。確かに悲惨であり、あれもカイコ棚である。しかしあのカイコ棚には、寝るだけのスペースはあった。船にはガス室はあるまい、と言われれば確かにその通りだが、しかし、この船に魚雷があたったときの大量殺戮の能率―三千人を十五秒―は、アウシュヴィッツの一人一分二十秒とは比較にならぬ高能率である。でも、魚雷はガス室ほど確実に来るわけではない、という人もあるかもしれない。しかし、もう一度いう。では何隻の船が終戦時に残っていたのかと。結局すべての船が、早かれ遅かれ、最終的には、世界史上最大能率の大量殺戮機械として、活用されただけである。
一体、この船艙につめこまれたことと、ガス室につめこまれたことと、実際に、どれだけの差があるのであろう。両者とも、見動きは出来ず、抵抗の能力はなく、ただ、死が来るのを待っている。差があるとすれば、一方はコックをひねられればおしまい、一方は雷跡が見えればおしまい、という差があるだけではないか―。アウシュヴィッツといえば人は身ぶるいをする。しかし、小松氏が「バアーシー海峡」の名をあげても、人は、何の反応も示すまい。理由は何であろう。アウシュヴィッツの犯蹟(はんせき)は明らかになった。多くの写真が公表され、多くの記事が書かれた。同じことは『収容所の群島』にもいえる。
しかしバシー海峡は何も残していない。海がすべてを呑み込み、一切を消し、人びとはこの海峡の悲劇だけでなく、この海峡の名すら忘れてしまった。従って、敗因第「十五」を人は奇妙に思うのも不思議ではないかも知れぬ。しかし奇妙に思うこと自体が、今に至るまで、真実は何一つ語られていないことの、決定的な証拠ではないのか。
**********引用終了 P61-63**********
ここで出てくる小松氏とは、昭和20年9月1日に、ネグロス島で投降し、その後、ルソン島の労働キャンプで過酷な生活を強いられる中で、紙も筆記具もない状態で記録を残した故小松真一氏のことである。「日本はなぜ敗れたのか」は、小松氏の手記をもとに、山本七平が解説をしている。よって、先の21か条は小松氏によるものである。
私がここでこの部分を紹介したのは、横井さんや小野田さんの話だけを持って、外地に赴いた兵隊さんの話とは決して一括りには出来ないことを強調したいからだ。
山本氏の解説には、先に挙げた「衆愚の罠」と同じラべリングの罠が見て取れる。
**********以下引用**********
一体問題はどこにあるのであろう。戦争中「鬼畜米英」という言葉があった。事実、戦場には“残虐行為”は常に存在するものであり、もちろん米英側にもあり、その個々の例を拡大して相手の全体像にすれば、対象はすべての人間でなくなり、「鬼畜米英」「鬼畜フィリピン」「鬼畜日本軍」になってしまう。
そしてこういう見方をする人たちの共通点は常に「自分は別だ」「自分はそういった鬼畜と同じ人間ではない」という前提、すなわち「相手を自分と同じ人間とは認めない」という立場で発言しており、その立場で相手の非を指摘することで自己を絶対化し、正当化している。
だが、実をいうとその態度こそ、戦争中の軍部の、フィリピン人に対する態度であったのである。
**********引用終了 P145**********
以上、「日本はなぜ敗れるのか」 山本七平
角川書店 2004年 より
「永遠の0」をきっかけに、我々はいろいろなことを学ぶべきではないだろうか。知れば知るほど、戦争の実態はあまりにも多いこと、そしてその悲惨さに気づく。私が紹介したのはほんの一部の話だ。
悲惨な戦争をなぜ起こしてしまうのか、ましてや歴史に残るような大量虐殺がなぜ起きてしまうのか、その原因に迫る作品が映画「ハンナ・アーレント」だ。
・映画「ハンナ・アーレント」に見る「冷静な思考」
きっかけは年明けのテレビ番組だった。最近のヘイトクライム、ヘイトスピーチの問題、そして広がる外国人排斥運動や日中韓の問題なども含めて扱っていた。最初は、それらをいつもながら「グローバル化」のせいにしたがる司会役のリードには辟易していたが、番組の中で紹介された映画「ハンナ・アーレント」が目をひいた。アイヒマンが法廷で証言する場面だった。
そう、あのアイヒマンだった。アウシュヴィッツで人体実験をやったメンゲレも有名だが、数百万人のユダヤ人を強制収容所へ移送する最高責任者だったのがアドルフ・アイヒマンだ。ホロコーストに加担したナチスの党員への追及が始まった時に、アイヒマンは他の元党員同様、南米、アルゼンチンに逃れた。しかし、1960年イスラエルの諜報機関、モサドによって拘束された。1960年は昭和35年。東京オリンピック開催の4年前になる。映画「ハンナ・アーレント」はここからはじまる。
早速、この映画を見に行こうと思ったのは、テレビの中で「どれだけの極悪人だろうと思っていたら、どこにでもいそうな小市民であった」ということばがあった。そのことに衝撃を受けたハンナ・アーレントが『イェルサレムのアイヒマン - 悪の陳腐さ(凡庸さ)についての報告』という本を書いていくというストーリーに興味を持ったからだ。
映画のネタばれにならない程度にとどめておくが、ユダヤ人で自らも強制収容所(フランスのグール)に連行された経験を持っているアーレントが、イェルサレムの裁判でアイヒマンの裁判を傍聴する場面は思わず身を乗り出してしまう。私がテレビで見た場面だ。それもそのはず、この映画を作ったドイツ人のマルガレーテ・フォン・トロッタ監督は実際の裁判記録の映像を使っている。「本物のアイヒマンの映像を使わないと、“悪の凡庸さ”の本質が表現できないからです」というトロッタ監督のこだわりだ。「アイヒマンは、たった一文たりとも、正確な文法で話すことができませんでした。彼の話しぶりから、頭の中で深く思考することができない人物だとわかります」とも述べている。
但し、ここで、我々は「正確な文法を話すことができる人」ならアイヒマンのようにはならない、と誤解してはいけない。(特に「ロジカルシンキング」教えたりしている「文法は正確だ」と過信している研修講師諸君へ告ぐ!)
映画を見る前まで、ハンナ・アーレントは、かのマルティン・ハイデッガー教えを受けていたということは知らなかった。加えてアーレントはフッサールやヤスパースという錚々たる哲学者から学んでいる。そう言えば、映画を見た後で、彼女が1951年、アメリカ国籍を取得し、同年出版した「全体主義の起源」の解説本を数年前買って本棚に入れたままになっていたことにようやく気づいた。
アーレントはアメリカからイェルサレムの裁判でのアイヒマンの陳述には呆れてしまう。その一部を紹介しよう。
**********以下引用**********
アイヒマン「将校は忠誠を誓います。誓いを被る者はクズと見なされます。私も同意見です。今回法廷で宣誓しましたが、当時も同じ考えでした。宣誓は宣誓です」
アイヒマン「つまり、意識的な両極状態です。義務感と良心の間を行ったり来たりで・・・」
裁判官「個人の良心をやむなく捨てたと?」
アイヒマン「そう言えます」
裁判官「“市民の勇気”があれば違ってたのでは?その勇気が―」
アイヒマン「(裁判官の言葉を遮り)ヒエラレルキー内にあれば違ったでしょう」
裁判官「では虐殺は避けられない運命ではなく、人間の行動が招いたものだと?」
アイヒマン「そのとおりです。なにしろ戦時中の混乱期でしたから、皆思いました。”上に逆らったって状況は変わらない。抵抗したところで、どうせ成功しない”と。仕方なかったんです。そういう時代でした。昔そんな世界観で教育さあれていたんです。たたき込まれていたんです」
**********引用終了**********
アイヒマンは極めて、月並みな言い訳をしているのはよくわかるだろう。そんなアイヒマンを見たアーレントの思索家としての思考の深化が始まる。そして、アーレントがたどりついたのが、先に紹介した「悪の陳腐さ(凡庸さ)」だった。
映画の圧巻は「極悪人アイヒマンを擁護するのか!」とユダヤ人から非難をあびるアーレントが大学で語るシーンだ。「ソクラテスやプラトン以来、私たちは“思考”をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。― 中略 ― 私は実際、この問題を哲学的に考えました。“思考の嵐”がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。」と。
私なりに蛇足ながら付けくわえるとアイヒマンは自分が逃れるためには周到に「思考」していた。加えて、先に紹介した法廷での受け答えのように言い訳はできるのだ。つまり、深く広い思考ができない、あるいは思考停止というよりも、以前から言っている思考不全であった。本物の(役者の演技ではない)アイヒマンの表情からEQも理性も感じられなかった。
そして、想像力の欠如だ。ローマ時代の詩人、プビリウス・テレンティウスのよく知られたことば、「私は人間である。ゆえに、人間に関わることならば何でも自分と無縁のこととは思わない」が示す通り、ほんの少しの想像力があれば、ユダヤ人の苦悩を無視できないはずだ。但し、これは認知心理学の分野で紹介されているように、我々の脳は自己都合によって、目をふさいでしまい、想像力もシャットダウンしてしまう。それは、我々だれにでもおこりうることだ。
・「思考を深化する」必要性
だとしたら、我々は絶えず、「思考を深化する」ことを怠ってはならないだろう。哲学と聞くと、小難しい話だと思う方にはこの映画はおすすめだ。「思考停止」ということばが、先に紹介した山本七平氏が指摘した「バシー海峡の殺戮」でも、アイヒマンに対するアーレントのことばの中にも出ていることは興味深い。
ドイツ・ルクセンブルク・フランス合作の「ハンナ・アーレント」は2013年ドイツ映画賞、バイエルン映画賞、そして2012年の東京国際映画祭でも受賞している。つまり、第二次大戦だけではなく、独仏、英仏、英蘭と長い歴史の中で戦争をくりかえし、人間の心の中に潜む「悪の凡庸さ」を指摘し、それを受容する叡智が欧州にはあると私は考える。もちろん、EUの多くの国でも極右のナショナリストの活動が増えているのは、承知の上だ。ただ、欧州の知識人の奥深さと懐の深さを感じるのだ。
この映画を見て、欧州の知識人と言えば、ドラッカーと同じ、オーストラリア生まれで、ほぼ同時代を生きた批判的合理主義で、そして自然科学、社会科学の分野でも幅広く活躍した故カール・ポパーを思い出さずにはいられない。
ポパーについて知らないという方のために紹介しておこう。
**********引用開始**********
彼の思想の核心にあるのは、不正との闘いであり、悪の排除である。彼は、高邁(こうまい)な倫理的価値をかかげて人びとの結集をはかり、熱狂的運動を引き起こし、善を実現しようなどとは露ほども考えていない。むしろ彼は、地獄への道は人びとの善意によって舗装されているという歴史の現実をかたときも忘れない。善と為そうとして悪を為してしまう現実に対して彼は、善の追求ではなく悪の排除のみをおこなえという、ある種の人びとには消極的とも思える倫理を説く。そしてこの立場が、誤りの排除をつうじて真理への接近を目指すポパー科学哲学と並行関係にあることを見抜けない人は少ないことであろう。
**********引用終了P323**********
つまり、威勢のいい熱狂には要注意であり、常に「思考を深化」していくことが今を生きている我々に必要なのではないか。特に、そのための教育であり、そして教育を受けた者は絶えず、権威と自らに厳しい目を向けなければならない。ポパーは官僚や科学者を含む「知的職業についている者」が持つ、「権威あるものは間違いを犯さないはずだという古い職業倫理がおかしいことを指摘している。反対にポパーが「よりよき世界を求めて」で記した基本思想を今こそ我々は胸に刻むべきだ。これも少々長いが、今の日本人全員に読んでもらいたい箇所だ。
**********引用開始**********
一、われわれの客観的な推測知は、いつでも一人の人間が修得できるところをはるかに超えでている。それゆえ、いかなる権威も存在しない。このことは、専門領域の内部においてもあてはまる。
ニ、すべての誤りをさけることは、あるいはそれ自体として回避可能ないっさいの誤りをさけることは、不可能である。誤りは、あらゆる科学者によってたえず犯されている。誤りをさけることができ、したがって避けることが義務であるという古い理念は修正されねばならない。この理念自身が誤っている。
三、もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そしてなんぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。直感によって導かれる創造的な科学者にとっても、それはうまくいくわけではない。直感はわれわれを誤った方向に導くこともある。
四、もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。それゆえ、そうしたあやまりを探求することが科学者の特殊な課題となる。よく確証された理論、あるいはよく利用されてきた実際的な手続きのうちにも誤りがあるという観察は重要な発見である。
五、それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは、ここにおいてである。なぜなら、古い職業倫理の態度は、われわれの誤りをもみ消し、隠蔽し、できるだけ速やかに忘却させるものであるからである。
六、新しい原則は、学ぶためには、また、可能な限り誤りを避けるためには、われわれはまさにみずからの誤りから学ばねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すとことは最大の知的犯罪である。
七、それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
八、それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。
九、われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、感謝の念をもって受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らの犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思いだすべきである。またわれわれは、最大級の科学者でさえ誤りを犯したことを思いだすべきである。もちろん、わたくしは、われわれの誤りは通常は許されると言っているのではない。われわれは気をゆるめてはならないということである。しかし、くりかえし誤りを犯すことは人間には避けがたい。
十、誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼等はわれわれを必要とする)ということ、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これまた寛容につうじる。
十一、われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし他者による批判が必要なことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
十二、合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定されたり理由を述べるものでなければならない。それは、客観的な真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。
**********引用終了P344-347**********
以上「ポパー 批判的合理主義」より
小河原誠
講談社1997年
本質でなくて、属性で判断したり、権威にいとも簡単にひれ伏してしまう日本のマスコミ、知識人、そして我々全員にとって、ポパーのこの12の要件は忘れてはならない。
・Ethnocentrism 「自民族中心主義」を超えて
さて、「永遠の0」の話はどこに行ったと思う読者に対してこたえよう。「永遠の0」によって、戦争のことを少しでも知ろうという人が増えるのは大変いいことだと思う。
但し、常に、これまでほんの一部紹介したように、その時の見方は、より広く、深く、そして多面的でなければならない。そうでないと、狭隘なナショナリズムに走りやすいのはどこの国民にも言えることだ。
その根底には我々が持つ、Ethnocentrism 「自民族中心主義」がある。つまり、「中国人が一番!」、「日本人が一番!」、そして「アメリカ人が一番!」という発想だ。世界の様々な国がお互いに相互依存関係が増し、もはや一国だけでは生きていけない今日、必要なのは、狭隘なナショナリズムではなく、「開かれた愛国心」だ。
かつて、IBM名誉会長の椎名武雄氏は「自分はかなりの愛国主義者だと思う。だからこそ、異文化も受け入れられる」と言われていた。また、日本を代表するメーカーのあるCEOは「本当の愛国者とは、他国に対して自国同様の尊敬の念を持てる者」と定義されていた。
まさに、これこそ、「開かれた愛国心」ではないだろうか。
小説「永遠の0」と映画「永遠の0」には決定的な違いがある。それは、小説には書かれていた箇所が映画にはない。それは映画のラスト・シーン、0.7秒に込められている。0.7秒とは、人間が反応を示す平均的なスピードだ。つまり、あと映画が0.7秒も続いていたら、小説と同じシーンがうつされてしまう。そして、そのもし、そのシーンがあると、映画を見ている者はある種のカタルシスを感じることであろう。但し、そのカタルシスとは「一矢を報いる」という発想につながってしまう危険性をひめたものだ。そのカタルシスがない故に、映画「永遠の0」を見た者は思考を深化せざるを得ない。
敗戦必至にもかかわらず、終戦を早くできなかった理由の一つに、軍令部の中で降伏する前に、なんとかして「アメリカに一撃をくらわして、一矢を報いたい」という意図があったというのはNHKのドキュメンタリーで見たことがある。そのために、東京空襲、原爆投下、沖縄戦とあまりにも多くの犠牲者が出てしまったのだ。
私が懸念するのは、この「永遠の0」が我々の自民族中心主義を増長することだ。ゼロ戦は確かにデザイン的に美しい、と私も思う。ただ、もはやプラモデルだけ作っていた時と異なるのは、子供のころにはわからなかった事実を学んできたからだ。もちろん、戦争の全体像を知るにはまだまだいろいろなことを学ばなければならない。
もう一つ、小説にはないセリフであるが映画に出てくる名セリフがある。しかも、この作品が遺作となった名優、故夏八木勲さんが語るものだ。「あの時代には一人一人にそれぞれのドラマがあった。我々だけではない。それを伝えていくのが生きたものの責任です」と。(映画館の中での記憶なので、語句は多少違う可能性あり)そして、我々は伝えられたことから学びとることだ。
過去を学びながら「開かれた愛国心」を磨かなければ、それこそ犠牲になった311万人に申し訳ないと思うのは私だけではないだろう。