第101回 「半沢直樹」現象に見る「水戸黄門」の影

この夏あたりから、私が「ハゲタカ」ファンと知ってか(連載第22回&49回参照方)、「『半沢直樹』をどう見ますか?」という質問を受講者の方や、あるいはフェースブック上で聞かれたことが何度かある。

実は、ほぼ同時期に放映されていた「半沢直樹」の原作者、池井戸潤氏による「7つの会議」(NHK)の方にハマっていた私は、「半沢直樹」は途中から録画でとりだし、週末、それもセッションのない時にまとめて見るという状況だった。

確かに、視聴率をあげる工夫がよくされているドラマであると思った。同時に「ネジ」の話や、町工場をやっていた半沢直樹の父が自殺する場面など、ドラマ「ハゲタカ」を彷彿させるところが多いと感じた。ある週刊誌で、池井戸氏自身が、番組プロデューサーに「そんな(安直な)展開でいいんですか?」と聞いたという記事も目にした。当然、「ハゲタカ」の重厚さも、リアリティも感じられなかった。

そう思っていたところ、友人の一人がこの両者を対比した文章を送ってくれた。

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ハゲタカと半沢直樹の違い。それは戦う相手。

半沢直樹は、正義感を持って「悪」と戦ってる。これって、すごくわかりやすい。

自分が目指す方向とか、戦い方とか。

で、結果も目に見えてわかる。

逃げようと思えば、逃げることだってできる。

それに対してハゲタカは、「自分」との戦い。

戦い方もそれぞれが常に模索してる。

何がゴールかもわからない。自分しかわからない。いえ、もしかしたら自分もわからないのかもしれない。

そして、何よりも、その戦いから逃げることはできない。相手は自分だから。

だから戦い続けるしかない。終わらない戦い。

深い悲しみの怒りを、相手に向けるのか?自分に向けてしまうのか?

これも人それぞれなんだろうと思う。

半沢直樹のように人に向ければ、きっと楽なんだろうと思う。

でも、それを自分に向けてしまった瞬間に、それを背負いながら自分と戦わなければいけないという宿命が待っている。

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全く同感だ。この見事な洞察は、最近見た映画「許されざる者」を思い出させてくれた。クリント・イースドウッドの名作をリメイクしたものだ。こちらも、「悪い奴をやっつけて、溜飲を下げる」というエンターテイメントの対極に位置づけられる作品だ。

誤解のないように、つけ加えると私は「わかりやすい映画」も大好きで、特にアクションものは息抜きによく見ることがある。

ただ、「倍返しだ!」と怒鳴り散らす半沢直樹には違和感を覚えるし、ましてやそれが、「視聴率平成の民放ドラマ第一位!」と騒がれ、書店に行けば「倍返しグッズ」なるものが陳列されているのを見ると、なにか危ういものを感じる。

それまで威張っていた人間が、半沢直樹の前で土下座をすることに多くの人は快感を覚える。どこかで見た感じだと思ったら、気づいた。「この印籠が目に入らぬか!」と一括されて黄門様の前にひれ伏す構図だ。もちろん、「半沢直樹はむしろ権力と戦っている」という点では「水戸黄門」とは全く別物ということはわかる。

私が指摘しているのは、相手にひれ伏すこと強要する構図だ。高視聴率をとっていた「水戸黄門」を見ていた世代は恐らく、半沢直樹の敵役の役員世代あるいはそれ以上の世代だろう。世代は変わっても、なぜか、そんな「わかりやすさ」を追求するものばかりが視聴率が取れる、そのことに危うさを感じるのは私だけだろうか。