第91回 山下さんから教わった「いじめ」をなくす方法
「いじめ」の問題が深刻だ。生徒の自殺という最悪の事態が起きると、明るみになる学校側の隠蔽体質、教師や他の生徒の見て見ぬふり、加害者側の家庭環境。今年も何度このパターンを見てきたことだろう。
では、対策というと未だに決定的な対策は見つかっていない。それどころか、学校、家庭、そして生徒達の間で責任の所在のなすりあい、とまで言わないまでも、押し付け合いがおきていると感じるのは私だけではないだろう。たしかに、「地域コミュニティーで注意していこう!」というのは、悪くはないが、それだけでは具体策はみえにくい。
実は「いじめ」の問題も、1週間前に起きた笹子トンネルの吊天井落下事故、原発事故の問題、そしてこのメルマガの初回から折にふれている日本の諸問題も、全て共通していることがある。戦後の高度成長期の間の影の部分が顕在化していることであり、システミックな問題であることだ。
システミックな問題を解決するためには、個々の事象だけに目を奪われてはない。特定の「悪者探し」や「責任者のつるしあげ」では問題解決にならない。むしろ、そうしたことが問題の根本的な解決を先送りしてしまう。なによりも我々一人一人がそうしたシステムの中の一員であるという自覚が必要だ。なぜなら、我々の意図せぬアクションがまた負の連鎖を生んでしまうのがシステミックな問題だからだ。
このような複雑に絡み合った原因が連鎖するシステミックな問題解決のためには、「勘所」もしくはレバレッジポイントを探さなければならない。
では、「いじめ」をなくすための「勘所」とは何か?
それを教えてくれたのは、山下泰裕さん、そう柔道の山下さんだ。今から5年前、財団法人の国際ビジネスコミュニケーション協会が発行している「グローバル・マネジャー」での対談シリーズの特別版ということで、山下さんと対談する機会を頂いた。実はその前にも、山下さんにはニ度、私がファシリテーター役としてお会いしていた。対談は三時間半にも及んだ。
冒頭から、山下さんから制作側に対するリクエストがあった。それは、「いじめの撲滅運動」について取り上げてほしい、ということでした。山下さんの提案する「いじめの撲滅運動」は極めて現実的でなおかつ、即効性のあるものだ。「体力のある柔道部員が、いじめの現場で、『おい、そんなことしていないで、こっちにおいでよ』とか、『やめようよ』と声をかければいいのです。そして、それは柔道部員だけではなく、サッカー部員でもバスケットボールの部員でも、テニス部員でもいい。なぜなら、競技の中でフェアプレーを教えているのだから、それを柔道の「道」と同じように日常生活にも活かせるはずだ。」と力強く話されていた。
「実は、山下さんは小学生の時は暴れん坊でいたずらっ子だった。そんな手のつけられない山下さんが柔道に出会い、そしてあの輝かしい実績を選手時代に残し、その後、指導者、教育者と活躍されている。山下さんは「柔道を通じて、世界の青少年の育成をしたい。そうして柔道に恩返しをしたい」と自らNPO「柔道ソリダリティー」主宰している。
「山下さんは続けた。「競技場やコートの中でフェアプレーを唱えておきながら、それが生活にいかされていないとしたら、その原因は指導する側にあるのではないか、そしてそのことは、勝つことにこだわりすぎて、柔道の創始者、嘉納治五郎の理念「精力善用、自他共栄」を自分自身が本当に実践できていなかったのではないか、と思い始めたのです」と教育者として歩みはじめたころを語られた。
山下さんとの対談中、私は思わず、故・河合隼雄さんの「日本には教える人はいても、育てる人はいない」ということばを思い出しながら、「山下さんは本当の教育者であり、共育者ですね」とつぶやいた。すると、山下さんは「河合隼雄先生は大変な方です!」と以前、河合隼雄さんが中央教育審議委員の座長をされていた時のエピソードを語られた。山下さんとの対談の翌日、河合隼雄さんの訃報が流れた。2007年の7月のことだった。
知育、体育、徳育、どれも欠かせないのが教育だ。「いじめ」は教育の問題であり、教育者が勘所となる。柔道だけではなく、フェアプレーを教えているはずのサッカーでもバスケでもなぜそれが教室でできないのか、それは指導者が教育の本質を忘れているのではないだろうか、山下さんの指摘は的確で、説得力がある。
これは、なにも「体育の先生」に「いじめの見張り役」を頼もうという話ではない。それでは、冒頭に述べた「自分はシステムの傍観者」になってしまう。
実は、この原稿を書く3日前、都内のあるレストランで私がクライアントとビジネスディナーを食べていたところ、そこのスタッフが私に「山下さんが見えています」と教えてくれた。山下さんは個室で他の方と食事をされていたので、山下さんの帰り際にお会いすることができた。
ちょうど、その日の朝、ラジオの番組で、「いじめをなくすためには音楽でも、スポーツでもいい。IOCはスポーツは実は精神的成長を育む上で、はかりしれない効果があるので、その意味でもスポーツの振興をすすめる方針を発表した」というようなことを聞いた。山下さんが5年前語っていたことと同じだ。
その夜、全くの偶然で山下さんにお会いする機会があったというわけだ。当然、短い時間の立ち話ではあったが、山下さんと「いじめ」の問題を語り、私も微力ながら山下さんの活動を一人でも多くの人に伝えることを誓った。
現在、神奈川県体育協会会長も務めていらっしゃる山下さんは、数年前から他の自治体にも呼び掛けてこの運動をすすめている。是非、下記サイトをみてもらいたい。
http://www.sports-kanagawa.com/outline/greeting.php
私は、幼稚園から小学校に上がる頃の1年間、足の病気で、足全体をギブスで固定していた。膝をまげることは出来ずに、体育はいつも見学。当然、いじめの対象にもなっていた。守ってくれた友人もいた。また、弱いくせに、負けん気だけは強かった私は、最後は「キレて」いじめていた奴にむかっていったこともある。
そんな自分の弱さを克服したいがために、中学から柔道を始めた。高校まで続けた柔道だが、全く上手くはならず、武道の世界からは足を洗おうと浪人時代には考えていた。ところが、大学に入った時に、大変な武道の先生に出会い、その結果、大学に棒術部という部を創部、30代前半までは棒術や空手のインストラクターもやっていた。武道から学んだものはかたりつくせない。
恐らく、もっとも重要な学びは、「むきあう」ことだと思う。「なぜ、柔道では『礼にはじまり、礼におわる』ことを大事にするのか」山下さんも強調されていた。相手とむきあうことは自分にもむきあうことだ。
そして、それは他のスポーツも、音楽、芸術も一緒だと思う。山下さんは常に「では、自分はどうなんだ」と自らを振り返って、今でも自分を高め、磨く必要があるから学びつづけると言われる方だ。
「精神性は自ずとついてくる」と思っていたら、置き忘れてどこかに行ってしまったのが、日本の教育界ではないだろうか。戦後のGHQの政策のせいにするのだろうか?戦後どころか、明治維新直後、「廃刀令」とともに大事なものを置いてしまったのではないだろうか。今から140年前のことを後悔するのではない。今、気づいたら誰もがはじめればいい。
「教育というのは影響力が強い。指導する側の責任、影響力を踏まえて、だから自分がもっともっと高めなければならない」山下さんのその姿勢は2006年に初めてお会いした時から全く変わらない。
当時、「いいことを言う人間は、いいことを言えるようにしておく」という山下さんのことばを聞いて、私は「もう、人前でリーダーについて語るのはやめよう」と心底おもった。同時に、「でも、自分もできないことが多い。穴ぼこだらけの人間なんですよ。そんな自分も含めて自分自身を受け入れ、愛する」という山下さんことばに励まされている。
自分に向き合って、一歩ずつ前に進めばいいじゃないか。そんなことに気づいた。
この学びは一人でも多くの人につたえたい。