第76回 「水に流す」ではすまされないこと
3・11東日本大震災と福島原発事故からちょうど半年がすぎた。このメルマガの読者の皆さんにはご存知のとおり、以降、私はここで、3・11に関連した問題提起を行ってきた。しかし、今回は当初から懸念されていたことが次第に現実になってきていることを記しておきたい。
相変わらず、遅々として進まない政府の復興処理、東京電力と保安院の隠蔽体質。さらに、問題の本質をとらえることなく「空気」に支配されて流されてしまう関係者たちの姿勢、そしてそれに加担するマスコミ。さらにもっと哀しいのはそうした「大本営」発表に疑問を持たない「根拠なき楽観主義者」、あるいは権威に対していともたやすく思考依存してしまう人々。
実は、私の懸念していたことは、これらのことに留まらない。未曾有の天災の惨劇をあれだけリアルタイムで世界の人々と目撃し、戦後初めて「非常事態」を体験したにもかかわらず、それがすでに風化しつつあることだ。この週末、就任後、ただちに辞任に追い込まれた「放射能をつけた」という大臣の発言はその象徴的な出来事でもある。瓦礫の処理や保障を待つ被災者や今でも不自由な生活を余儀なくされている避難所ですごす方々からみたらとんでもないことだ。
日本では「水に流して」というのはポジティブな価値として存在する。いつまでも過去起きたことにわだかまりを持たずに、「水に流す」というのは人間関係において確かに重要な知恵だ。ところが、社会的に大きな影響を与えた問題となると、そう簡単に水に流してしまっては、またいつか同じことをくりかえしてしまう。
言うまでもなく、今回の3・11の件を見ていると、先の戦争に突入し、敗戦をむかえた時の繰り返しになっていることに気づかされる。私の父は「学徒動員」でかり出され、かの「神宮球場での行進」をした多くの学生の一人で、母は女学校を出て就職をしたものの「挺身隊」として軍事工場で働いていた。二人とも、「なんであんな負けると分かっていたのに、上の人ははじめちゃったんだろうね?」、「新聞もラジオもひどかったもんだ」などと時折語っていた。決して「自虐史教育」とは関係ないところでだ。
終戦記念日の前後に、NHKのドキュメンタリーでなぜ戦争をはじめてしまったか、という視点だけではなく、なぜ事態が悪化するにもかかわらず、戦線拡大を続けて余計に犠牲者を増やしてしまったのか、を問う番組があった。前線から離れたところで指揮をとる軍の中枢部がお互いの面子にこだわり強調できず、意思決定も出来ない、という状況があったことを明らかにしていた。以前にも書いたことであるが、「混乱、言い訳、先送りという日本の哀しいお家芸」の歴史は長い。
300万人の犠牲を払った昭和の悲劇の教訓を活かせなかった、あるいはきちんと学びもしなかった我々が、また平成の国難からのレッスンをあいまいにし、水に流してしまうのでは、そのことを私は危惧している。