第71回 政府と東京電力だけを責められるだろうか ―我々が試されている今、共有しておきたいこと―

  信実と誠実となくしては、

  礼儀は茶番であり芝居である。

        新渡戸稲造

   <信実=まじめでいつわりのないこと。正直>

  あまりに凄絶な被災地の状況

  その前では、どんな言葉も陳腐に

  ならざるをえない 。

  それでも、たくましさ、いさぎよさ、 やさしさを

  失わない被災者の人達

  そして、過酷な前線現場で活躍する

  プロフェッショナル達の姿

  それを見ていると自分の無力さに気づく。

  「変革期には潜在的な問題が顕在化する」(2001年『変革リーダーの技術』)

今、我々は有事のリーダー不在と緊急にして複雑なプロジェクトマネジメントが不全という二重苦を経験している。特に原発の問題ではこれが顕著だ。東京電力に乗り込んで、「あなたたちしかいないでしょう。撤退など有り得ない。覚悟を決めて下さい」と譴責した首相はなぜ、「あなたたち」を「わたしたち」と言えなかったのだろうか? 政府だけではなく、東京電力はなぜ後手後手の対応と情報隠ぺいと伝えられるようなことをくりかえすのだろうか? 一体、いつまで「想定外」、「専門外」、「担当外」を言い訳にしているのだろうか? プロジェクトマネジメントにおいては、チームが一丸となることは必須だ。それができなければ、「チーム」ではなくバラバラの委員会となんら変わらない。

確かに、「想定外」の地震と津波ではあるが、問題は、その後の処理だ。原発の専門家が「政府と東京電力には先を見通す能力がないように思える」と述べていた新聞記事があったが、「先を見通す能力」はリーダーの必須要件であるのは、言うまでもない。東京電力は「政府に怒られたくないから」、保安院は「国民がパニックになるから」、そして政府は「諸外国からたたかれたくないから」という理由で情報発信が上手く出来ていないと感じているのは私だけだろうか。

複雑な課題を解決するには、

  複数の要素がお互いに関連し合う問題を構造的にとらえるシステム思考

  いろいろな作業を同時に進める、並列処理能力

  「どちらも一理ある」という状況での意思決定をする胆力と思考の速さ

  それを支える「広い視野と高い視座」

 これらのどれもが必要である。しかし、その力を鍛えてこなかったのは、彼等だけではない。そもそも、日本の教育システムはこれらを育ててこなかったのだ。試験勉強という軸だけで「優秀」とされる人間が、実は思考力がもろいことがあるので、「東京駅半径5キロ、霞が関半径3キロ、は思考停止や思考依存という『アタマの生活習慣病』に要注意!」とも訴え続けてきた。

そして、『アタマの生活習慣病』は分別なく情報を流し続けるマス・メディアにもいえることだ。大学教授というだけで、いとも簡単に信じてしまうのは「権威による思考依存症」だ。どうやらマスコミは、「学者」と技術者(エンジニア)との区別がついていないようだ。前者は研究テーマを持って、調査データには明るいが(あるいはそのはずであるが)、後者のような問題解決ができないことがある。今、必要なのは問題解決だ。

もちろん、Ph.D(博士号)などの学位も持って、なお且つエンジニアもいる。MITで、原子力エンジニアリングのPh.Dを持って、なお且つゼロベースの問題解決を誰よりもやってきた大前さんの解説はさすがにわかりやすかった。有料チャネルのプログラムを解放して、地震の直後、日曜日には、「今回の事故はスリーマイル島より上でチェルノブイリより下、つまりレベル6」と述べていたこの番組は多くのビューアーがいた。フランス政府が同じ発表をしたのは、その後の水曜日だった。16年前の都知事選挙では、大前さんではなく、青島幸雄を選んだのは都民であったこともつけ加えておく。

また、理系と文系のバカの壁をつくってしまい、理解しようという試みさえもなくしてしまったテレビやラジオのコメンテーターをどれだけみてきたことか。そういえば、現民主党政権を「理系出身者が多いから、だから自民党政権よりも合理性がある」というような似非ロジックで民主党を支持したのもメディアではないか。だからと言って、「自民党だったらよかったのに」とまた安直なコメントを述べている「知識人」のコメントを読んで唖然とする。「現首相よりマシ」ということでは同意する。しかし、今回の東北地方の復興も、福島原発の問題も、そんな程度では無理なことはちょっと考えればわかりそうだ。

  本当に大事なものとそうでないものを見わけること=>クリティカル

  Critical = 分ける、別れる=>分別

ロジカルシンキングは和製英語で、本来はCritical Thinkingというのが一般的と、これも10年前に書いたが、今こそ我々は「似て非なるものを見極める」必要がある。このメルマガ第一部、4回目に書いた文章を敢えて、再度、紹介したい。

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では、なぜ「クリティカルな目」が変革期に重要なのだろう?

まず、変革期には不確定な要素が多くなる。その結果、情報が氾濫しやすくなる。さま  ざまな情報からさらに多くの解釈が生まれ、それがまた情報氾濫を助長する。

「クリティカルな目」を持たなければ、単に情報の取捨選択ができないだけではなく、こ  の渦に飲み込まれてしまうのだ。

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単なる批判的な見方はしても、クリティカルな見方が出来ていないコメントもあまりにも目につく。原発推進派と原発反対派、東大派と京大派、こうした二項対立のラベリングはわかりやすいが、思考も停止しやすい。今回、原発の問題で多くの「専門家」の論考のサイトも見てみたが、「論拠なき主張」が以外と多いことにも驚かされた。また、「論拠が根拠としての妥当性を欠いた」主張も見てきた。そして、それらを「専門家が言っているから」とスルーさせてしまう思考依存症のテレビの司会者やラジオのコメンテーターの多いこと。怒りにまかせて醜いことばで、がんばっている関係者を攻撃する日刊紙や週刊誌の記事と大差ない。もちろん、新聞やテレビでは語られないが、大事な情報もある。ネット情報も玉石混交だ。

かつて、プラトンは「勇気とは 恐るべきものと恐るべからざるものとを識別することなり」 と述べている。我々もクリティカルな見方をもつ勇気をもっともっと見につけていきたいものだ。

ことばの力はどこからでるのか

「高校野球の選手宣誓(春の選抜)がなぜ、一国の首相のことばよりも国民を感動させるのだろうか?」

「ハゲタカ」、「白洲次郎」、「龍馬伝」の監督、大友啓史氏と話している時に、このコメントにハッとした。

ことばの力はその人の信念 からでてくる。

信念はどこからくるのか

過信ではない自信、実績、行動

そして、それらを支える軸 (アイデンティティ)

「命懸けでやっています」

このことばが似合う人とそうでない人がいる。

防災服が似合う人とそうでない人

これも同じ。

我々は見ている。やってきたことは裏切らない。ことばをしっかり聞いている人には伝わるものだ。その人がどこまで、言っていることを信じて、そしてそのためにどこまでたたかってきたのか。

きれいなことばに違和感を感じることがある。

今回もきれいなことばが氾濫すればするほど、その違和感が増幅してきた。

今朝、内田裕也氏のコメントをテレビで見て納得したことがある。

「自分みたいなめちゃくちゃな人生送ってきたけれど、10%の正義感を持たなきゃ。そんな自分の矛盾がはずかしいけれど・・・」というような内容。潔さとすがすがしさを感じた。震災直後の3月18日、渋谷で自ら募金をよびかけ「今、やらないでどうする」というようなコメントの姿と一致した。映画のプロモーションだけではない。

反対の人達も目につきだした。つまり、きれいなこと、いいことを言ってきた人達がどこまで一貫性を保てるのか。もちろん、誰もが矛盾を抱えて生きている。

やってきたことは裏切らない。自戒を込めて、ことばのこわさをかみしめている。

人には伝わるものだ。その人がどこまで、言っていることを信じて、そしてそのためにどこまでたたかってきたのか。

たたかうべき相手は自分自身。

我々がいろいろな意味で試されている。

せめて、逃げずに向き合うことぐらいしなければ余りに申し訳ない。現場で文字通り「命懸け」でたたかっているプロフェッショナル達、多くの犠牲者の方と被災者の方、に対して。