第51回 「やましき沈黙」への決別を!

8月になると、「終戦記念日特集」の番組が増えてくる。今年、私が興味を持ったのはNHKスペシャル「日本海軍400時間の証言」。当時、海軍の中枢、軍令部のメンバーが1980年から12年間にわたり行ってきた反省会の録音テープ、400時間におよぶ記録をもとに作成されたものだ。もともと、非公開を前提に、当時のいきさつをよく知る当事者同士がお互いに日中戦争から戦後処理までをふりかえりながら、「なぜあの戦争を引き起こしてしまったのだろうか?」、「なぜ止められなかったのだろうか?」を探っていく貴重な記録であった。

その中で、私の心に突き刺さったことばが「やましき沈黙」。おかしいことは多くの人がわかっていても、その場の空気にのまれてしまい、沈黙してしまうことをこう表現していた。「反省会」に出席していた参加者は戦争の大義を本当に問うことなく、なし崩し的に戦争に突き進んでいってしまったことや無謀な作戦を止められなかった根本的な原因として「やましき沈黙」を指摘していた。番組のプロデューサーもそれは今を生きる我々にとっても大きな課題ではないか、という問題提起をしていた。沈黙の連鎖が「勢いだけの強弁」や「あやしき詭弁」の暴走を許してしまうことは、企業組織の中でも、起きてしまう。

もっとも、この問題が日本固有かというと、そんなことはない。アービン・ジャニスが述べた「グループシンクの罠」にあるように、集団で議論しながら意思決定を行うときに、多数派が正論を言う少数派を黙らしてしまうことは万国共通と言ってもいいだろう。

但し、それを踏まえても、「言挙げしない国」、日本で育った我々の課題は大きい。「阿吽の呼吸」、「一を聞いたら十を知る」という高コンテクストのコミュニケーションスタイルや、議論や対話を行うスキル不足があるからだ。

それに加えて、私が以前「思考依存症」と名づけた傾向もあげられる。つまり、集団や権威へ依存してしまうことによって、自ら考えるという習慣が身につかないことだ。「他社でもやっているじゃないですか」とか「社長も言っていることだし」と言うセリフが多くなってきたら要注意だ。

こうした要素が重なると余計に「やましき沈黙」に流されてしまう。「やましさ」を感じているうちはまだいいのかもしれない。もっと怖いのは「思考停止の自覚なき沈黙」だ。

人はことばを持つことによって思考する。まずは、ことばを発することから始めなければならないし、それを認める土壌づくりが重要だ。「やましき沈黙」への決別はそんな第一歩を我々が踏み出せば可能なことだ。

ちょうど、裁判員制度が始まった。賛否両論あるが、かみ合う議論がいかに大事で、その結果大きな影響力を持ってしまうことを直視する機会でもある。但し、「やましき沈黙」がおきなければいいのだが。