第9回 思考依存症を生む「センセイ」文化

以前から気になっていることがある。国会議員を「センセイ」と呼ぶことだ。本当に自分の師と仰ぎ、尊敬の念を持って、「先生」と呼ぶならわかる。私も武道の世界に20年いたので、心から「先生」と呼びたい、つまり「●●サン」とは言いたくない師と仰ぐ人は何人もいた。また、武道の世界以外でも、例えばビジネススクールの恩師であるロバート・モラン教授や、日本でのメンターであり、グローバル人材開発の先達である小林薫先生を、文字通り「先生」と呼ばせていただいている。

ところが、どうもこの「センセイ」と呼ばれている人達が世の中でいろいろな問題を起してくれるわけだ。国会議員に限らず、さきのマンション耐震強度偽装事件では、設計事務所の「センセイ」や業界のカリスマ「センセイ」が登場する。今、世の中で「センセイ」と呼ばれている人達の社会に対するプラス面とマイナス面を対比するとむしろマイナス面の方が多くなっているのではと思うのは私だけであろうか?

以前も紹介した「頭の生活習慣病」の中で、思考放棄症と並んで「思考停止」に至るのが「思考依存症」である。依存する対象は、周囲に依存する同調行動、ことばそのものに依存する「バズワード症候群」(パスワードではない=流行の言葉、例えば「ガバナンス」、「シックスシグマ」と聞くと、何となくわかったような気になってしまって思考を止めるめるタイプ)、継続への依存、そして最後が水戸黄門メンタリティーと言ってもよい「権威への依存」だ。

どうも、我々はこの「権威への依存による思考停止」が多くないだろうか?この傾向は「だって、社長が言ってたから」そして「●●先生が言っているので」といった言葉に現れている。

我々が社会で生きている以上、他者や歴史に全く依存せずに考えるというのは不可能だろう。正確に言うならば「過度の依存」が問題なのだ。自戒をこめて言っておくならば、「ドラッカーが言ったから」、「ポーターが指摘しているように」という文章にであたっら、お互いに注意しよう。何故、ドラッカーのその指摘が良いのか、考えているならいいのだが、ドラッカーを出せば安心、というのでは思考停止と言われても仕方がない。

さて、そして「センセイ」だ。私も研修などで「先生」と呼ばれることがあるが、「さん」づけでお願いすることにしている。おもしろいことに、「さん」づけでお願いしたセッションは、うっかりこれを言い忘れて、参加者が「先生」と呼ぶセッションに比べて、こちらに対する質問やつっこみが活発になりやすいのだ。遠慮がなくなるからだろう。そもそも、コンサルタントは誰でもなれる商売なので、「センセイ」と呼ぶと勘違いする輩もでるし、まさにお互いの思考停止を生む。決して権威を提供しているわけではない。カルト教団では、「センセイ」どころか「尊師」に至り、そうなると脳死状態になってしまうのだ。

改めて強調しておきたいが、私は「師」に敬意を払うことを否定しているのではない。むしろ「師」と仰ぎ見る人に出会ったことがない人生は不幸だと思う。ただし、「師を求めて、師に頼らず」。権威による思考依存症には注意したい。その意味で、この原稿を読んで頂いた人材開発関係の方、是非是非、「研修では『さん』づけでいきましょう!」と研修講師に伝えてほしい。あるいはこのMLを研修事務局に転送してほしい。それで怒りだす講師は21世紀には不要である。