第5回 「頭のいい人」なんかでいいの?

私は時間のある時はよく書店に行く。どのような本が出ているのか、新しいテーマは何かを見るのは商売柄必要なこと……というよりも趣味でもある。

さて、最近ちょっと気になっていることがある。それは「頭のいい」、あるいは「頭のいい人」云々というタイトルの本をよく目にすることだ。

ちなみにこの原稿を書く直前にアマゾンで検索してみたら「頭のいい」は155件、「頭のいい人」は24件となっていた。さらにこの前、どこかで見かけたタイトルで愕然としたのは「頭のいい人と思わせる云々」という類だ。「アタマのいい人にそんなになりたいの?」「一体、思わせておいてどうするの?」とつっこみたくなってしまう。

確かに、頭をつかう時代である。右肩上がりの成長期ならば、大事なのは経験とそれに培われた勘であったが、もはやそれだけでは用は足りない。また、知的付加価値を高める重要性は日に日に増してきている。だから私も「思考」や「思考力」という言葉がつく本を合計4冊出版し、「思考力」を発揮するを主張してきた。ちなみに「思考」とつく本をアマゾンで検索すると2182件、「思考力」では309件がヒットした。この数字はここ3年間で確実に増加しており、ノレッジワーカーの時代のうねりを感じさせられる。

「思考力」はよくて、「頭のいい」は悪いという単純な話ではない。私が懸念を抱くのは「頭のいい人」のタイトルに隠された前提だ。養老孟司氏の「バカの壁」がベストセラーになってからか、「バカ」と「頭のいい人」の二項対立の図式を出版社は悪用しすぎではないだろうか?

「バカ」よりも「頭のいい人」になりたいと思うのは人情だ。ただ、ちょっと考えてほしい。「頭のいい人」あるいは、「いい頭」とは何だろうか ?どうもそこに「頭のいい人」=「勉強の出来る人」=「秀才クン」という前提がないだろうか? 私はこれまで「文部科学省の20世紀の功と21世紀の罪」を主張してきた。明治時代の富国強兵、戦後復興から高度成長を支えた教育については問題ない。マジメで、理解力と覚えることを得意とする人材を育ててきたことは「功」である。

ところが、知識はあるが、自分で考えることができない、つまり思考の自立と自律ができない人材を輩出してしまった、いや、輩出し続けていることは大きな「罪」である。しかもこの構造の「勝ち組」が「秀才クン」であり、彼らに周りの人が思考依存をするという構図ができてしまったのだ。以前も書いた「アタマの生活習慣病」の病根でもあるわけだ。「アタマのいい人」ブームがその病理を進めているように思えてならない。

確かに、今の時代にも付加価値を生み出せる秀才はいる。しかし、あまりにも「カタイ頭」や「ふやけた頭」の秀才クンが多い、と思うのは私だけではないだろう。ずばり言うと、「バカな秀才」が日本をダメにしているのだ。時代が求めているのは「いいアタマ」よりも「柔らかくて、なおかつ強いアタマ」である。「バカな秀才」ではなく「価値ある異才」をめざそうではないか。