第1回 ロジックと屁理屈を識別せよ!
皆さん、ご無沙汰しています。船川です。またまた連載再開させて頂きます。
題して、<船川淳志のクリティカルトーク>。よろしくお願いいたします。
さて、このコラムの読者なら、クリティカルトークの意味あいはご理解いただけるだろう。ようやく日本で定着してきた「クリティカルシンキン」グの「クリティカル」だ。
クリティカルは批評する、批判するという解釈が出ているようだが、語源はギリシャ語の「分ける」にあることがポイントだ。真なるものと偽なるものを見分けるというのが本来の意味合いであり、その意味でクリティカルシンキングは論理思考を内包している。
また、クリティカルインシデントというような使われ方があるように「重大な」という意味合いがある。クリティカルマスとは臨界量と訳されるが、まさに重大な「分かれ目」である。「分ける」ことがしっかり出来れば「分かる」ようになるわけだ。
私は物事を生み出すクリエィティブ思考に対して、ものごとを厳しく検証する思考のモードをクリティカル思考と定義している。「多異変な時代」の今こそ、クリティカルな目を持ち、クリティカルに考え、議論することが求められているのだ。
そこで、このコラムでは世の中の出来事や事象について、クリティカルに語ってみたい。当然、私自身の思考の枠があるので、意識しないとクリティカルではなく、思い込みトークになりやすい。その意味で読者の皆さんの忌憚のないフィードバックも大歓迎だ。
英語のタイトルは略語でFACT、まさに事実を大事にしていきたい表明でもある。もちろん、英語だったらAtsushi FunakawaであってAFCTではないかと言われるとちょっとつらいことはご容赦願いたい。
さて、今私は企業研修を年間100回、約160日ぐらい行っているが、その4割がこの数年ニーズが高まってきている「思考力強化研修」だ。クリエィティブ思考とクリティカル思考を鍛えながら問題解決の思考力を養うもので、対象は入社2、3年目の若手社員から役員手前の方までさまざまだ。
最近、このセッションの中で気になることがある。それはロジックと屁理屈の区別がつかなくなっている人が多いことだ。ロジック、論理とはすじみちの明確さが問われる。わかりやすい「すじみち」は「みちすじ」が見えやすい。つまり、再現性、一貫性があることだ。クリティカル思考とは、因果関係、演繹、帰納などの論理の原理原則を理解しながら、なお且つ自らの思考の枠にも注意を払わなければならない。これに対して、屁理屈は本人にしか「みちすじ」が見えない論法だ。広辞苑によると「つまらぬ理屈」「道理にあわない議論」とされている。事例で考えよう。
アメリカのクイズ本で見つけた問題だ。「テーブルにハエが10匹いました。ハエたたきでたたいたところ3匹しとめました。さて、テーブルには何匹いるでしょう?」この問題、私のように、ひっかかりやすい人間は10-3=7、7匹と考えるだろう。でも、ちょっと考えれば、答えはゼロ。というのは、たたいた瞬間ハエは逃げてしまうので、テーブルには残っていないというわけだ。「やられた!」と思った。
ところが、世の中には「屁理屈」をこねる人がいる。「えっー、でも、テーブルにもし接着剤が塗ってあればハエが動けないかもしれないじゃないですかっ!」というタイプだ。「ハエの羽がもしとられているかもしれないし」ここまでくると、呆れる方は多いだろう。でも、本人は「飛び立つのが良くて、どうして接着剤は悪いんですかっ!」とさらに食い下がる。
屁理屈をこねる方は「ゼロではなく7匹と答えた自分を正当化したい!」という隠れた前提があるようだ。つまり、「一本取られた!」ことを認めたくないわけだ。困ったことにこの手の方は世間で言う「優秀な人」に少なからずいる。子供の時から勉強も良くできた。私が間違うのは問題がおかしい!と考えてしまうのだ。出来ない自分を受け入れられないのだ。自己認知力の欠如だ。
ロジックと屁理屈を区別するためには、一旦、自分で屁理屈をこねてみるとわかるだろう。「ハエがものすごく鈍感なハエで動かない場合であってあるじゃないか」自分で「ひねりすぎているよね」と理解できるだろう。
ロジックには厳しく、でも屁理屈をこねないように注意したいものだ。