第6回 「クリティカルな目」で世を見ると(その1)
さて、今回はこれまで述べてきた「クリティカルな目」の応用編とも言うべき、「クリティカルな目」で世の中の出来事を見てみよう。
クリティカルに見るということは、感情的に批判することではない。 論理という原理原則のすじみちを重視しながら、ものごとを検証してい くことなのだ。
なお、クリティカル思考の詳細については今月、日経ビジネス人 文庫の新シリーズとして発売された拙著『ビジネススクールで身につく思考力と対人力』をご参照願いたい。
先週、電車の中吊り広告で一つ目にとまったコピーがあった。「マナーからルールへ」、ゴミのポイ捨てに対して罰金を課すという千代田区の特別条例のことだ。もはや、各自のマナーに委ねることでは解決できないという判断である。千代田区のこの対応についての是非は賛否両論あるだろうが、ここで気になるのは「マナーからルールへ」という意味合いだ。
人が成長し、自立した大人になるということは、自由度も自己責任も大きくなる。社会のなかで自立するためには当然、「自律」も求められる。なぜなら、自由度が高まるのは良いけれども、各自が勝手なことを行えば社会秩序が維持できないからだ。
「自律」とはまさに自ら律する、言い換えれば、自己規範を要するわけだ。自己責任と自己規範は表裏一体なのだ。つまり、大人の社会とは自由度と自己規範の2軸が重要なのだ。
ところが、いまや自己規範に期待できない状況が広がっている。これは千代田区のポイ捨ての問題だけではない。度重なる企業の不正事件、ひいては学校教育の荒廃にもあてはまることだろう。
戦後の日本社会では「自由」を重要な価値観に置いてきた。それ自体決して悪いことではない。しかし、もう一つの重要な軸、「自己規 範」を忘れてきたのではないだろうか?いま、「自己規範」の欠如による組織、社会のほころびが至るところで見えてきている。
「マナーからルールへ」、言い換えれば「規範よりも規則」であり、それは文明社会の後退を示しているのだ。そのぐらい、いま、われわれは「クリティカルな時期」を迎えていると考えるのは私だけだろうか?
(次回に続く)