第2回 「"うねり"と"はやり"を見抜く目を持つ(その1)」
これから何回かに分けて、変革の時代を生きていく「知恵」について考えてみよう。その前に知恵とは何か、技術とどう違うのかをおさえておこう。
まず知恵のほうであるが、情報から役立つものが知識として残り、さらにその知識の昇華したものが知恵とされている。知識の有効寿命はいまや、どんどん短くなっているが、知恵は長生きする。われわれの生活、仕事、人生のさまざまな局面に役立つ、ものごとの見方の原理原則と見てよい。したがって、応用範囲も広いのだ。
一方、技術とは何かを為すための工夫であり、知恵に比べてより具体的である。ゆえに伝承可能なのだ。
山登りを見てみれば、おわかりのように、知恵も技術もあって始めて、安全に山を登ることができるのだ。知恵なき技術では天候に迷い、技術なき知恵ではそびえたつ岩壁を乗り越えることはできないのだ。
では、前置きはこのくらいにして、知恵に移ろう。まず、「目」から入ろう。最初に紹介したいのは「うねりとはやりを見極める目」である。かつて、「厚底ブーツははやりであるけれど、グローバルとITはうねりである」と書いたことがある。いまだから明らかな話であるが、厚底ブーツ全盛のころだ。
ITバブルがはじけた時にそれをもって、「ITは終わった」と言っていた人たちがいた。昨年、9月11日直後、「グローバルは終わった」という議論もかなり出ていた。どちらも、うねりを的確に捉えていないのだ。
同様に「いつになったらこの景気は戻るんだ」「つい、この前まで日本に学べと言っていたのに、いつの間に欧米の真似をするようになったんだ」という見解も既に、「波をかぶっているのに、うねりが見えていない」症候群なのだ。
ワールドカップが終わったところだが、ある人が「これこそグローバルなんですね。今までグローバルって、アメリカになっていくと思っていたわけですよ。それがそうじゃない、というのを日本人がわかったんじゃないんですか」とテレビで述べていた。ちょっと待ってほしい。そう思っていたのはあなたたちではないですかっ!と言いたくなってしまった。
うねりが見えていれば、こうした言葉に惑わされることはない。では、うねりと見るコツは?次回に触れたい。