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特集│OPINION 1
生産性と健康の両立が
次世代のスタンダード
エンパワーメントを加速する
健康経営

「健康経営は特別なものではありません」。そう語るのは、産業医で健康経営研究会理事長の岡田邦夫氏。
「健康経営銘柄」や「健康経営優良法人」など、ブランドのイメージが強い健康経営だが、
健康経営が目指すところは何なのか。これから取り組むには何から始めればよいのか。
岡田氏に基本となる考えを聞いた。

岡田邦夫(おかだ くにお)氏
健康経営研究会 理事長

医学博士。大阪ガスで長く産業医として産業保健に従事。
同社健康開発センター統括産業医を経て、大阪経済大学人間科学部客員教授、大阪市立大学医学部臨床教授、プール学院大学教育学部教授などを歴任。
2018年より大阪成蹊大学教育学部教授。厚生労働省などの委員会にも多数参画。
主な著書に『「健康経営」推進ガイドブック』(経団連出版)、『なぜ「健康経営」で会社が変わるのか』(共著、法研)など。

[取材・文]=田邉泰子

健康への投資効果に注目せよ

私が理事長を務める健康経営研究会は、2006年にNPO として立ち上げた。もともとは高齢社会対策基本法の制定にあたり、労働生産人口の減少と高齢社会の到来を見据えたとき、日本企業の未来はあるのかという危惧から始まった団体だ。当時は“健康経営”と訴えたところで、企業からは見向きもされなかったが、それから十数年たち、健康経営は研究会を発足したころに我々が想像していた以上の盛り上がりを見せている。

契機となったのは、政府が成長戦略の一環として健康経営を取り入れたことにある。経済産業省と東京証券取引所が共同で「健康経営銘柄」の選定を始めたことで、一気に活発化したのである。取り組みは大企業だけでなく中小企業や、地方では自治体がリードする形で広がっている。

ここで一度、健康経営について定義しておきたい。私たちの組織では、「『企業が従業員の健康に配慮することによって、経営面においても大きな成果が期待できる』との考えのもとで、健康管理を経営的視点から考え、戦略的に実践すること」としている。健康経営による経営面の大きな成果とは、大きくは「医療費の削減」と「労働生産性の向上」だ(次ページ図1)。仮に従業員の健康増進に1億円かけたとしよう。それにより従業員の病気やケガ、メンタル不調が減少し、負担する医療費が(健康保険組合を通すため間接的ではあるが)5,000万円削減できたという場合、それでは5,000万円のマイナスではないか、と考えるかもしれない。

だが心身が健康になれば、生産性の向上にも大きな効果がある。従業員が休まなくなり、働いている間も高いパフォーマンスを発揮できるようになった結果、これまでより2億円分生産性が上がったとしたらどうだろう。差し引きで1億5,000万円の収益増につながったことになる。逆に売上・利益最優先で従業員の健康は二の次で働かせたとしたら、直近の利益は出せたとしても長くは続かない。いつかは従業員が体を壊し、治療による長期離脱や退職などで大きな損失を被るからだ。

医療費と生産性の課題国・日本

日本の企業はどうして健康経営に取り組む必要があるのか。それは先に健康経営の定義で述べた、“医療費”と“生産性”の両方に深刻な課題を抱えているからである。

医療費については、社会保障の持続性がかねてより問題視されていることは周知のとおりだ。超高齢社会の日本では、健康寿命を高い水準で維持することが大きな課題である。70歳定年が当然となる今後を考えても、企業が従業員の健康増進に取り組むことが求められているのである。若いうちから脂質異常症、糖尿病、高血圧など、生活習慣病のリスクを抱えている場合ではないのだ。

そして生産性について言及すると、相対的に見た場合、日本は他の先進国と比較して単位量あたりの生産性が異様に低い。時間あたりの労働生産性は46.8ドルで、先進国7カ国中最下位。米国の6割程度の生産性である。これは複雑に絡みあったいくつもの要因によるものだが、日本人の健康状態が影響している部分もある。

たとえば、プレゼンティーイズム(病気やケガではないが、体の不調が確認できる状態)の問題だ。なかでも睡眠不足は、肩こりに続くプレゼンティーイズムの代表格である。日本人の睡眠時間はOECD加盟国中ワーストで、平均時間より1時間ほど短い。さらに労働時間も長い。

長時間労働が生じる理由も実に複雑だ。意思決定のプロセスの煩雑さによる部分もあるし、非正規雇用の労働者の増加により、責任をともなう部分の業務が正社員に集中してしわ寄せが来ているとも考えられる。いずれにせよ、パフォーマンスの低い状態で長時間働くスタイルが、生産性を低下させている可能性は高い。

高齢者の問題もある。近年働き手として期待される世代だが、当然ながら若い世代に比べて転倒などの事故による負傷リスクは高い。かつ60歳以上で就労していない人たちの4分の1は、疾病が原因で働きたくても働けない。働き手の損失は、そのまま生産性に直結している。

そして今後、さらなる労働人口の減少や後継者不足による中小企業を中心としたM&A など、企業を取り巻く環境にはドラスティックな変化が予想される。これまで以上に心身の健康を求められる時代が、すぐそこまで来ているのである。

会社は本来、従業員の健康に細心の注意を払う必要がある。1人の従業員が疾病により仕事を休まなければならなくなった途端、事業主は主治医の指示に従わざるを得ない。けれども従業員が元気なうちは、手の施しようはある。健康というのは企業にとって収益の対象であり、つまりは経営者が考えるべき項目なのである。

「時間」「空間」「利益」投資

まず、企業が健康管理に関する法令を順守するというのは、健康経営以前の問題だ。日本では全員が健康診断を毎年受けること、健康保険に加入することが決められている。しかも50人以上の労働者がいる会社では、ストレスチェックも義務化されている。これは世界的に見ても、非常に珍しいことだ。たとえばアメリカと比較すると、オバマケアが2010年に制定されるまで、健康保険への加入は任意だった(もっともトランプ政権になって、廃止も含めて再度議論されたのだが)。健康管理は自己責任で行い、既往症などがセンシティブ情報として扱われる海外と異なり、日本は「使用者が労働者の健康管理にも配慮する」ことが法で定められているのだから、土台は整えやすい。

そのうえで、健康経営をどう進めていくか。スタートはやはりトップの舵取りが重要になる。ただ本来の理想は、ボトムアップの健康経営だ。従業員の健康リテラシーが高まり、現場からコンディションを整える取り組みが継続的に行われる姿が望ましい。とはいえ、日本の組織文化を踏まえると、ある程度の道筋をつくるところはリーダーの役目といえよう。

このとき経営者に考えてほしいことは、従業員の健康づくりに対する“投資”の発想だ。私たちはこの投資を、「時間」と「空間」、そして「利益」の3つに分類している(図2)。時間投資は、業務時間内に健診を行う、産業医の面接を受ける、経営者が健康経営をどのように行うかを検討する、といった時間も含まれる。お金は直接動いていないが、時間によって間接的に投資をしていることになる。それから空間投資は快適かつ健康的なワークスペースの実現、利益投資は直接的な施策を指す。たとえば、リフレッシュスペースの設置やスタンディングデスクの導入などは空間投資だし、インフルエンザ予防接種の費用を会社が全額負担するなどの取り組みは、身近な利益投資にあたる。

そして時間投資でぜひ押さえてほしいのが、現場マネジャーと部下とのコミュニケーションである。うつなどの精神疾患にまつわる労災認定の裁判では、たびたび上司と部下の関係性が問われている。

たとえば部下の携わっていた仕事が、質・量ともに本人の能力を上回っていた場合、本来なら業務を調整するか、円滑に遂行できるようサポートに入るのが適切な判断といえよう。ところが業務内容自体が上司の専門外だったために、具体的な指示やアドバイスができず、「なぜできないんだ」「納品に間に合わない」などと、叱責を繰り返してばかりいたらどうだろう。部下は誰にも相談できずに1人で抱え込むことになり、心身に異常をきたしてしまう。実際に同様のケースでパワーハラスメントが認定された判例が、数多く実在しているのだ。

健康と生産性の両立が企業価値を高める

先の例はいろいろな問題を抱えてはいるが、コミュニケーションをとっていれば回避できた側面もある。本人の資質や能力を把握する時間、会話を通じ仕事の状況や本人のコンディションを確かめる時間への投資である。

現代社会では業務が複雑、煩雑化している傾向にあり、適性がパフォーマンスに大きく影響する。特に近年は発達障害なども注目されており、緻密な作業は得意でも、周囲との調整や曖昧な場面での処理を苦手とする人もいる。新入社員の研修期間が短縮されるなか、早めに傾向や特徴をつかむにはコミュニケーションが不可欠といえる。

そして部下の態度や仕事の精度、体調などのちょっとした異変に気づき、早めに上司がケアできたなら、深刻化する前に健康問題の悪化を食い止めることができるはずだ。残業などを減らし、回復するまで普段の8割程度まで業務負荷を下げて調整することで、数週間での回復も十分見込める。「産業医の先生に相談すれば」というひと言があれば、医療の側面からケアできることもあるだろう。

こうしたやり取りは、仕事の進捗確認だけでは生じにくい。やはり日々のコミュニケーションを丁寧に積み重ね、信頼関係を構築することでなし得ることだ。

心身の変化を無視した結果、数カ月間の休職を余儀なくされ、その間のパフォーマンスがゼロになることと比べれば、数週間の損失など微々たるものにすぎない。もちろん上司は、業務に対する十分な理解も必要だ。具体的な指示やアドバイスもなく、「頑張れ」だけでは部下は路頭に迷ってしまう。

目指すべきは、高いレベルでアウトプットできる組織の実現だ。人は成功の瞬間、活力が生まれるものだ。元気になるだけでなく、モチベーションも高まる。時に発破をかけることも必要かもしれないが、基本は笑顔と活気に溢れる状態に健康は宿る。会社の役割とは事業を通じ社会を豊かにすることであり、瞬間最大的に利益を得ることが本分ではないはずだ。健康と生産性、この両立を図る仕掛けこそが、企業そのものの価値を高めるのである。

その点を踏まえると、管理職に対するマネジメントスキルのトレーニングは必須といえるだろう。間接的ではあるが、健康経営の観点から投資に値するのである。

鍵となるエンパワーメント

ここまで述べたことからさらに、どう健康経営を進めていくかというのは、企業によってそれぞれ異なるだろう。若手の女性の多い会社であれば乳がんや子宮頸がん検査を健診メニューに追加する、高齢者が活躍する会社であれば、ロコモティブシンドローム(足腰など運動器の衰えにより、移動機能が低下すること)対策を行うなど様々な方策が考えられる。経営者の健康リテラシーが高ければ、自社に必要な施策が見えてくるはずだ。隣の会社がやっているからうちも取り入れよう、という考えではじめても、意味をなさないのである。

少子高齢社会において、健康経営は非常に重要な役割を果たす。なかでも鍵となるのは、“エンパワーメント”である。権限委譲とも訳されるが、実際の意味はより奥深い。組織の一人ひとりが自分で判断し、行動できるようになること、つまり自律性を高めることがこれから重要となってくるはずだ。極端な言い方をすれば、会社に頼らず1人でも活躍できる人材の育成が求められるということである。

そしてこのとき培う素養の1つとして、「健康リテラシー」を忘れてはならない。これは高いパフォーマンスを発揮できるよう、自分自身で心身をコンディショニングできるような力だ。“雇用”の枠組みを超え、会社と従業員が対等な関係を築くこと、これこそが健康経営の望ましい在り方といえよう。

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